ローマ最古の円形の教会「サント・ステファノ・ロトンド」
珍しい丸い形をした初期キリスト教建築のサント・ステファノ・ロトンド教会。(ロトンドは、「円形の」という意味)ローマ最古の円形の教会で、最初の殉教者ステファノに捧げられています。その形から、古代ローマの神殿を彷彿させ、多神教の神殿を教会に転用したものかと思いそうになりますが、この教会は、西暦460年頃に最初から教会として建造されています。
古代ローマ時代、この場所には、食料物資の貯蔵や軍事通信の処理などを担う準軍事部隊の隊員が駐屯していた兵舎がありました。
ただし、この場所が単なる軍の施設だったわけではありません。このような立派な教会が5世紀に建てられたのには理由があったのです。
1973年から1975年にかけて行われた教会地下の発掘においてみつかったのは、軍施設内につくられたミトラ教の神殿跡でした。
ミトラ教は、オリエントを起源とし、牡牛を屠る太陽神ミトラを主神とする密議宗教です。ローマ帝国では1世紀から4世紀に興隆し、特に兵士の間で人気が高い宗教でした。原則として女人禁制で、入信するためには、厳しい試練的性格の入信儀式が課せられていました。
このサント・ステファノ・ロトンド教会の地下でみつかったミトラ教の神殿は、西暦180年頃につくられ、幅4m、奥行き10mほどでしたが、3世紀に入り、倍に拡張されていました。内部には、両サイドの壁沿いに信者用のベンチ、そして奥に祭壇が設けられていました。
そして、祭壇の奥の壁には、牛を屠る太陽神ミトラが描かれたスタッコ製のレリーフがかけられており、その両サイドには月と太陽をシンボルとしたフレスコ画が描かれていました。(月しか残っていません。)
サント・ステファノ・ロトンド教会の建設は、おそらくローマ教皇レオ1世の命により始まったと言われています。レオ1世の在位期間は、西暦440年から461年まで。西ローマ帝国の滅亡が476年ですので、それ以前に建設が始められた教会が今でも教会として機能しているのです。
現在、祭壇を中心に2重の列柱で円形に囲まれており、外側の柱の間は壁で塞がれていますが、建設当初その壁はなく、もう一回り外側に外壁がありました。そして、四方向に入り口の間が設けられており、平面にするとギリシア十字に円が重なった形になっていました。また、外側の列柱と外壁の部分の列柱側から3分の2のスペースに屋根はありませんでした。
教会には、一般的に、頑丈で厚い石壁、小さな窓で、内部は暗いイメージがありますが、建造された当初のこのサント・ステファノ・ロトンド教会は自然光が入り、外と空気も遮断されない構造であったわけです。それは、石材と木材との違いはありますが、日本の寺院の建築の縁側さえも思い起こさせます。自然との調和を重視した古代ローマの建築を、色濃く残した設計だったのです。
しかしながら、中世に入り、地震やノルマン人のイタリア征服時に被害を受けた教会は、中心部分の屋根は崩落、大理石は持ち去られ、外壁も崩れ落ち、とても悲惨な状態に陥っていました。そのため、1130年、教皇インノケンティウス2世により修復がおこなわれ、その際、列柱の間が壁で閉ざされてしまいました。
それと同時に、現在の教会の入り口である5つのアーチと4本の花崗岩の列柱でつくられたポルティコも増築され、中心には、屋根を支えるため、既存の建造物よりとってきた2本の高さ8.45mの柱と3つのアーチが設けられました。
1582年には、塞がれた列柱の間の壁に、ニッコロ・チルチニャーニにより34枚の凄惨な殉教のシーンのフレスコ画が描かれました。
これらのフレスコ画は、宣教のために遠い国に赴く若い司祭に起こりうる危険性を警告するためのものだそうですが、それにしても残酷です。
教会には、聖プリモと聖フェリィチャーノに捧げられた礼拝堂もあります。
サント・ステファノ・ロトンド教会は、チェリオの丘の東側、ネロ帝の水道橋沿いにあります。
参考文献:
https://www.romasegreta.it/monti/s-stefano-rotondo.html
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