遺書No.224 精神の言語化不良と自由の相互承認。
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2005.2.15
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何やら。
かつて10代の頃に、いや、さらに以前から。
モヤモヤと胸の中を彷徨い、
誰が正解と呼べる解答をくれるでもなくて、
また半端な主張や自己表現のゆえに、
自分の思考をサブカルチャー的に見せてしまう、
そんな歯がゆさから。
自分のボキャブラリーの少なさと、
表現力の乏しさ、
伝えきれないジレンマ、
共通理解と共有理解の枠組みの曖昧さ、
そういったモンに、グラグラとゆらゆらと、
グツグツと煮られて茹でられて振り回されて、
結局は自分の語彙力や言語化能力では補えない、
そんな自分のセンスの無さも含めて、
ずっと嫌気を覚えながら生きている自覚がある。
人の文章を目にすると、
うまい事を書くもんだなと羨ましくなる。
勉強と努力と練習を小さく見積もるのではなく。
例えば、自分の中のアダルト・チルドレン、
その「気付き」に至る前後の時期。
当時のリストカットを含めた自傷行為、
駆け落ちや心中未遂をした時期を振り返っても、
そんな自分の判断や行動が、
決して周りが見えなくなっていた訳じゃないこと、
ひどく冷静に考えていたし選択していたことを、
否定する気はないし改めて間違いないと思う。
まだ自分の中で「生」と「死」が等価値だった頃。
自己防衛という名目や、
根拠自体の根拠が不明な「正義」という大義名分に元で行われる行為。
一般的大多数が持つ共通理解による「モラル」が弾き出す、
「非人道的行為」いわゆる犯罪。
「罪」になる行為を起こした「人間」を裁く為の、
「法」を作ったのも同じ「人間」。
人間の判断で行われた行為を、
人間の判断で作った方で裁く。
その判断の尊重順位の根拠はどこにあるのか?
相変わらずコンパクトに語れない、
自分の気持ちはキリがなく。
歯がゆさと自分のセンスへの失望だけが残る。
そんなテーマの一つ。
うまく書くもんだなと羨ましくなる。
自由とは何の制約も束縛もないた中でしか存在しえないモノでなく、
他人との境界線や並列して共通意識という制約を与える事で、
初めて他人との距離や自分だけの距離を作る事ができて、
そうして初めてそのスペースの中でのみ己の自由が存在たりえる。
なんてこと。
「法」という人為的な枠組みで仕切りを作るからこそ、
個の自由が守られるという考えやね。
話したい事が一つある。
でもそれを話してると、
自分の考えを補佐するもの、裏付けるもの、
そういったものの補足説明もしたくなる。
やたら長くなる。
根拠の説明、その説明の根拠、改まって距離だけ見ると、
一つの本題を語る為なのにどんどん距離は遠ざかっている。
で仕方なく本題に戻ろうとショートカットする。
すると、お相手に誤解させるんじゃなかろか?
ツマランとこで疑問に持たれるんちゃうか?
余計な先入観で受け止められるんちゃうか?
と不安になってしまう。
私、病的です。
そやって半端に止める説明が、
いつも不完全燃焼というか、胸にくすぶりを残す原因になる。
でも分かってもいる。
きりがない。
掘り下げたら原子や電子の話やら、
自然の摂理やらカオス理論やら超ひも理論やら、
宇宙誕生の神秘やら疑問やら神話やらどっからかつながってしまう事なんだし。
そもそも会話に出すレベルじゃないとこまで頭の中で進んじゃう。
普段無理やり終わる訳ですけど。
解決されないくすぶりだけ残る。
自分のセンスのなさ、ホントに嫌になること、多いんです。
結局何が言いたかったかも、言葉に出来ずに・・ね。
こんなトコに書いちゃってどうして欲しいの?
どう反応して欲しいの?
と自分へ。
ま、診療所だからいいのかな。
科は問わずであれば。
こんな事かいていつも途中で消すんだもんで、
今日はいい加減なまま、相変わらずゴールのないままSUBMIT。
テーマ変わって(そもそも何のテーマかを言ってないが)、
「会話」と捉えると思う。
私の一つの病気。
お相手の感受を信用してないのかも。
ん~、また適切な言葉がないけど。
もちろん他人と完全に理解しあうなんて不可能な領域のレベルですけど。
言葉足りずの自己嫌悪やセンスの無さのコンプレックスがそうさせるのかも。
別に『癒し』を意識せんでもさ。
誰でも『自分を診る機会を得る場所』くらぃあってもぃゎよね。
ほんの気紛れです。
過去のボクは昭和の固定観念や慣習に縛られ、自分や家族を苦しめていた事に気付きました。今は、同じ想いや苦しみを感じる人が少しでも減るように、拙い言葉ではありますが微力ながら、経験を通じた想いを社会に伝えていけたらと思っていますので、応援して頂けましたら嬉しいです。