見出し画像

[小説]『朔の日 歌う月の鳥』⑦

<第七話 朔と共に生きる>

 カフェ「朔(ついたち)」を経営する満月(みつき)は、その名の通り、満月に生まれた私の二女だ。
「じゃあその日の満月は、一生忘れられないでしょうね」なんて言われたことがあるけれど、出産した日に夜空を見上げることができる産婦はいるのだろうか。
 
 予定日より早く、しかも陣痛が始まる前に破水してしまい、慌てて病院に連絡する私の傍らで、夫は月の満ち欠けを調べて「もし今日中に産まれたら満月だから、みつきだね。新月(しづく)と並べた時に、美しいな」と、長女・新月の頭をなでた。
「いやいや、今やるべきこと、他にあるでしょ、優先順位、違う!」と、私がキレたエピソードが笑い話になったのは、無事に満月が産まれてくれたからだ。
 入院中、新月を任せる夫の母にも、退院後泊まりに来る私の母にも、結局連絡をしたのは私だった。夫は妊婦登録してあるタクシーに連絡をしたあと、新月にいよいよ赤ちゃんが生まれるよと、おばあちゃんとの留守番を言い聞かせている。
 その光景をあたたかいと思うゆとりなんかない。いつもそうだ。この人はどんな喜怒哀楽が湧こうと、どこか静寂を持っている。
 
 そんな満月の日に産まれた娘は、夫に似た静寂を持っている子だった。小学校から帰ると、新月はいつも洋裁をする私の仕事部屋に来て、学校であったことを話したり、宿題をしたり、常にそばにいたけれど、満月はたいてい夫の書斎で本を読んでいた。
 まるで仲間外れみたいで気になり、そっと様子を見に行くと、満月は夢中でページをめくっていた。ああこの子は、この時間が幸せなんだ。それで、無理に新月と同じ習い事を勧めたり、同じ部屋にいるのを良しとすることをやめた。
 新月はそのうち、テキスタイルデザインに興味を持ち、自分でも柄を考えてノートに描いたり、はぎれ布で人形の服などを作るようになった。
 話すことが好きで、おっとりしている新月といると楽だった。特別、満月が扱いづらいわけではないが、なんとなく親子にも相性というものがあることをうっすら感じてしまう。
 
 ある日、書斎から満月が、めずらしく小走りで部屋に来て、「これなら、ひとりで作ってもいい?」と見せたのは、レンジ料理本だった。
「懐かしい」
 手に取って開くと、しみだらけのページはたちまち、育児に奮闘していた頃の記憶に私を引き入れた。
「あっ、この甘辛そぼろ丼、あなたたち、好きだったわー。牛肉しぐれ煮も便利だったな。そうそう、このクリームうどんもよく作ったの、覚えてる?」
 ふたりとも首を横に振る。そんなものか。
「みつき、作ってくれるの?」本をのぞきこんだ新月が「だったら、まずこれが食べたいな」とリクエストしたのは「野菜なんでもカラフルキッシュ」だった。
 
***
 
「ただいまー」
 カナタの声がして、はっとする。いつのまにかソファでうたた寝をしてしまった。なんだか遠い記憶をゆらゆら漂っていたような気がする。
「あれっ、おばあちゃん、今日はお休みなの」
「うん、そう。お昼を食べたら寝ちゃった」
「わかるよ。僕も給食のあといつも眠いもん」
 カナタの目元はママの新月そっくりだ。でも男の子だから、どんどん骨格もたくましくなってカナタはカナタになってゆくのだろう。くせっ毛はパパの友多(ゆうた)君。毎日、起きてくるたびに髪型が違うのもパパそっくりだ。
 
 夫が初めて友多君を家に連れて来た時のことを思い出す。まず頭に目が行ってしまったからだ。親子ほど年の差があるのにふたりは気が合うらしく、時には書斎で話し込み、時には新月や満月も交えてみんなで焼肉をしたり、鍋を囲んだりした。
 天涯孤独だという彼に、最初のうちは家族団らんを味わってほしいと思っていたけれど、そのうち彼自身の温かさが気に入って、「次は何を作ろう」と楽しみになった。そしてそれは新月もそうだったのだろう。ふたりはたちまち距離を縮めていった。
 
「ごちそうさまでした!」
 午前中に来た客が新月にお供えしてくれた焼き菓子をふたつ平らげて、カナタがすぐランドセルから宿題を出す。いい子だ。そういうところは新月というより、満月に似ている。
 私はつい、カナタのことを事細かく、ここは誰似、ここは誰似と分析してしまうが、夫は「名は体を表す。その時が来たら羽ばたける子だ」と穏やかに笑うだけだ。
「おばあちゃん、ちょっと教えてほしいんだけどいいかな」
 あれっ、この子が質問してくるのはめずらしい。
「名前の由来を家族に聞こうっていう宿題が出たんだ」
 ああ、そういうことか。「おばあちゃん知っているかな」というような不安そうな表情に、私はガッカリする。
「ダブル・ミーニング、って知っている?ひとつの言葉にふたつの意味を持たせること。あなたの名前はだからカタカナなの」
「えっ、えっ、ちょっと待って」
 カナタがあわててノートに書き始める。うつむいているけれど、間違いなく嬉しそうな表情だ。そうだよ、あなたの名前はパパとママが一生懸命考えたんだよ。大好きなミシンの音は、自分にとってメロディーだと言うママが好きな漢字の”奏”と、友達が多い、と書いて友多というパパの”多”を合わせた”奏多”。そして自分の夢に向かってどこまでも行けるようにとの願いを込めた”彼方”、ふたつの意味で”カナタ”になったんだよ。
 説明しているうちに、涙があふれてくる。
「ママもおばあちゃんと同じ仕事をしていたの?」うつむいたままカナタが聞いてくる。
 そう、新月は小学生から布小物を作るようになり、高校生にもなると「手作り通販サイト」で作品を販売するようになっていた。大学には進学しない、高校も中退して一日中、作品を作り続けたいと真剣に話す新月を、せめて高校だけは卒業してほしいと説得したこともある。
 今日、命日だからと手を合わせに来てくれた友人は、テキスタイルデザイナーで、新月とオリジナルブランドを立ち上げる夢を共有していた、高校時代の同級生だ。
 由来を書き終えたカナタはノートを片付けて「ママが作ったもの、見てみたいな」と仕事部屋の方を見た。
 
「もう、ほとんど売れてしまったんだけどね」
 まさか今日、カナタに見せることになるとは思いもしなかった。新月が遺した作品をそっと出してゆく。
「懐かしいね」うしろから満月の声がして、カナタがぴょん、と浮く。私は驚いて腰を抜かす。
「満月ねえちゃん!」
「カナタ、元気にしてた?」
 うなずくカナタを押しのけるように「満月、いきなりどうしたの」と大声を出してしまう。
「いきなりって、祥月命日は毎年、来ているでしょう。ほらこれ」
 包みを広げなくてもわかる。それはカラフルキッシュだ。
 
「へえ、名前の由来かあ」
 満月が来ていっそうごきげんになったカナタは、そばを離れない。やっぱり母親に近い年齢の叔母といる方が楽しいのだろう。
「満月ねえちゃん、これ、「朔」にあるよね」
 カナタが手にしているのは、新月がデザインした月の満ち欠けの柄のランチョンマットだ。
「そう。これはカナタのお母さんが作ってくれたものなの。たくさんあったからここに置かせてもらっているの」
 満月は昔から裁縫が苦手で、いつぞやは友達が結婚するからと布のご祝儀袋を作りに来たが、大人になっても不器用さは変わらなかった。
「ママ、すごいなあ」
 カナタの心によぎる母親は、写真立ての中の笑顔なんだろうか。
 
***
 
 新月達が消えた家で、幼いカナタだけが正確に時を刻んでいた。大人は皆、時を止めたり、後退させながら、欠けたものの大きさに目を向けてはそらす日々だというのに。
 親戚や近所の人に、母親代わりを求められる満月が、そう生きようとしている姿に、私までそうすることが自然で最善だと思い始めていた時のことだった。
 夫が抱えてきた、ふたつの大きな包みをひとつ開いて驚いた。たくさんのランチョンマットにコースター、ナフキン、カフェカーテン。満月に宛てた開店おめでとうのカードまで作ってあるではないか。
「あの子達の部屋を片付ける気になれないのはわかるが、思い出として残すのと、放置するのとは違う気がするんだ。君が無理なら、私がこれから少しずつ片付けていってもいいだろうか」
 もうひとつの包みには、子ども服が入っていた。サイズが90、95、100、110と分かれていて、イニシャル”K”のTシャツやオーバーオール、じんべえまである。通販用のものは私の部屋に持ち込んでいたから間違いなくカナタになのだろう。
「90、カナタにはもうきついかもしれない」
 私が部屋に立ち入ることが出来なかったせいで、娘の親としての想いを無駄にしてしまった。
「君なら直せるでしょう。プロなんだから」夫の声に見上げる。
「それに」満月宛てのカードを手渡しながら「新月の人生は新月のもの、満月の人生は満月のものだと、君なら教えてあげられるはずだ。彼女達の一番の理解者なのだから」と言った。
「なによ、昔から育児は丸投げなんだから」
「それについては反省している。だから」夫は、友多君の本棚を見つめる。
「父親代わりにはなれないが、カナタに父親のことを一番話してやれるのは私だと思う。君も、母親になろうとしなくていい。新月のことをちゃんとカナタに伝えてほしい。たくさんたくさんカナタを愛していたことも」
 ああ、この人は泣く時も、こんなに静かなんだ。では満月もきっと、私の知らないところで声も上げず、泣いているのだろう。そんな満月をちゃんと、未来に行かせなくては。
 
***
 
「あっ、おじいちゃんが帰ってきた!」
 あっ、またぼうっとしてしまった。満月とカナタが、カレーうどんを作り始めていた。
「これ、カナタのパパが好きだったんだよ」満月が言うと「うん、知ってるよ!だから僕も作れるようになりたくて、手伝ってるんだ」
 カナタは自信ありげにキッチンバサミでねぎと油揚げを切ってゆく。
「いい匂いだな」入ってきた夫の手には、新月と友多君が好きだったフルーツゼリー。これも毎年、祥月命日には必ず見る光景だ。
 
「いただきます!」
 カナタがうどん一玉では足りなくなってきた。大きくなったけど、相変わらず、カレーの汁を飛ばしまくっている。それは隣にいる夫も同じだ。この人はカレーうどんを食べている時が一番、躍動的だ。そうだそうだ、友多君と並んでカレーうどんを食べていた時に、飛ばしっぷりが似ていて親子のようだと思ったんだ。カレーのしみがふたりともシャツについて、友多君に脱いでもらい、その日は夫のトレーナーを貸したんだっけ。落とすのが大変だったから新月がカレーうどんの日用にふたりにエプロンを作って。友多君は照れながら嬉しそうにエプロンをつけていたな。あの頃もう新月のことを好きでいてくれたのかな。
 ふと気づくと満月がこっちを見ていた。
「なあに、満月」
「ううん。・・・お母さん」
「なあに」
「お母さん」
「なによー」
 やめてよ。せっかく笑えてきたのに、泣いてしまうじゃない。大丈夫、お母さんはお母さんの人生を生きるから、あなたはあなたを生きなさい。
 姉の名前をお店の名前にした、その愛の深さを母は尊敬しているよ。
 
<第七話 完>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?