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あきらめ

もう時効なので書くが、上京してから最初に好きになった人は同性だった。大学の文化人類学の講義で登壇していたその教授は淡々と「動物として、女性の出産適齢期は今のあなた方ほどの年齢かと思います。子供を持つことを少しでも考えるなら、16〜18歳のうちに出産をし、その後大学や社会に参画できるような社会が理想と私は考えます。今すぐ子作りを始めるべきと、皆さんに対しては思っています」と、新一年生たちを見もせずに言い放った。高校を卒業したばかりの小娘らは突然出産の話を突きつけられてざわついていたが、私はなぜか雷に打たれたような気持ちになった。先生がニコリともせず自分の意見を表明したので、それが新入生に対する小粋な大学ジョークではなく本気の思想だということは十分に伝わった。

その後、先生は変わらぬトーンで文化ごとの葬儀についての説明をし始め、100人以上の学生達の前で無修正の鳥葬の資料映像を流した。老婆の遺体をハゲワシが容赦なく啄むシーンが流れる頃には講義室は奇妙な沈黙に包まれていたが、私はこんな講義を春学期一発目の新入生向けにやっている先生のほうに興味津々だった。
昔から様子のおかしい人に対して特にときめきを感じてしまう。突然訪れた一瞬のときめき以外、その人のことを好きな理由を聞かれてもうまく答えられないことの方が多いくらいなので、自分はかなり直情的に恋をするタイプなのかもしれない。

素直なので、それからは毎週先生の目の前の席に1人で座って講義を受けるようになった。先生はいつも腰まで伸ばした黒髪をひとつに束ねていて、丸メガネをかけていて、ヒールのない靴を履いていた。私よりも身長が高く迫力のある姿形だがとても静かで、うるさい学生を注意する時ですらまったく声を荒げない。たまに思い出したように、講義の合間に自分についての話をしてくれるのが嬉しかった。宝物のペンを常に持ち歩いていることや、お茶が好きで色んな種類を水筒に入れていることなど。柄にもなく真面目に講義を聞き、毎回の出席カードには律儀に授業の感想を書いた。他の授業は悪びれずにサボってラーメンを食べに行くような素行だったが、先生には良い学生だと思われたかったし何より認知されたかった。

今期の講義もあと2回というところに差し掛かったところで、「期末のレポートは最低8000字は書いて提出するように」と先生は無慈悲に学生達を地獄へ叩き落とした。新入生が初めて取り掛かる課題レポートとしてはボリュームがありすぎるため、さすがの私もこれには悲鳴を上げた。しかし先生の、我々の心情など一切斟酌しない、私があなた方にとって必要だと思ったから課しました、という風な態度がまた好きなのでどうしようもない。テーマ決めに苦しんだが、最初の講義で見た鳥葬の映像を思い出して弔いについての拙いレポートをなんとか書き上げた。

レポートの提出締切日は、他の授業の課題にも追われて二日連続徹夜をしており、頭がおかしくなっていたのだと思う。レポートのファイルを添付した「恋愛的に好ましいと思っていました。すみません。」という一文で締めたメールを先生に送りつけ、パソコンを勢いよく閉じて真夏の薄暗い部屋の中でクーラーもつけずにひとりで泥のように眠った。今振り返ると完全に異常行動だった。
目が覚めると日付が変わっていて、その日は奇しくも私の誕生日だった。携帯を開くと友人達からお祝いのLINEが送られてきていたが、そのどれにも既読をつける前に大学のアドレスのメールボックスを確認した。

先生からの返信は非常に短いものだった。
「レポートを確かに受け取りました。学生とは恋愛関係にはなりません。以上」
しばらく黙って文面を見つめた。あまりの先生らしさに驚いてしまったのだ。同性とは、ではなく学生とは、と返してくれたところに大きな誠意を感じ、同時に自分の身勝手さを恥じた。しかし、ある意味では予想通りの返答でもあったので、一通り呻いた後はなぜか笑いが漏れ出てきた。自分でもよく分からない笑いなのだが、先生が、私の愚かな告白について疑わずに真に受けてくれたというだけで救われたからかもしれない。

秋学期にも先生の講義はあったが選択せず、以降卒業まで先生の顔を見ることはなかった。レポートで8000字書くのは本当にしんどくてもう嫌だから、と同じ学科の友人達に説明すると、皆簡単に納得してくれた。

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