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母とは。

私は母子家庭で育った。
そのことについて特別な感情を抱いたことはあまりなかったように思う。
それぐらい不自由なく生きてきた。

しかし、自分が働き始めて今更になって思ったことがある。
どれほど、大変な思いをして、しかし計画的に私と兄を育てたのだろうか。
ということである。

私の父とは、私が2歳半くらいのときに死別した。
母が私を産んだとき、おそらく35歳くらいだと思う。(母の正確な年齢をわかっていない…)
30歳くらいまで学生をしていたらしい彼女は結婚も出産も当時の平均よりは遅かったと思う。
つまり、父がいなくなった当時彼女は37、8歳で、しかも専業主婦だったらしい。
その年齢で、子供のいる女性が再就職するという時点でかなり困難がありそうではある。

彼女は、美術の教員免許をもっていた。死別をきっかけに彼女の実家、つまり私の母方の祖父母の家に帰り、教員として働き始めた。

この時点で実家に帰る決断をしたのは正しかったと思う。
祖父母が農家で家にいたので、私と兄を仕事の間見てもらうことができた。保育園や幼稚園の送り迎えも祖父母だった。
また、田舎の方が生活コストが押さえられる。持家のため家賃はかからないし、物価も都心に比べると少し低い。


彼女の仕事は、最初の2年は常勤の講師、それ以降は非常勤講師として最大3校掛け持ちしていたのを覚えている。講師としての採用なので正直収入は少ない。

残業などはあまりなかったが、部活の顧問はやっていたので帰りは早くはなかった。それでも常に食事は手作りだったし、高校以降はお弁当も作ってくれていた。実は、私は未だに冷凍食品を買ったことがないくらい馴染みがなく、食卓やお弁当に上がってくることはなかった。彼女なりのこだわりだったのかもしれない。

私が最も尊敬していてかなわないと思うことは、彼女の子供(つまり私と兄)に対する教育だ。
結果から言うと、私も兄も4年制大学を問題なく卒業させてもらえた。奨学金は借りていたが二人とも無利子のもので月額は大学時代で5万円ほど。
学費はすべて母が払ってくれた。

生活費に関しては奨学金とそれぞれのバイト代で賄っていたが、二人分の大学までの学費を用意してくれていた彼女には尊敬の念しかない。

彼女の仕事は正直言って収入は少ない。その収入と、父の働いていた会社からの遺族年金や母子手当など、それらをうまく運用してくれていたのだ。
ちなみに父方の実家とは音信不通に近い(と言うか現在は関わりはなく、残ってるのは父の姓のみ)ので援助はない。

彼女なりに大学までは、本人が希望するのであれば苦労をかけずに行かせたいという思いがあったのだと私は思っている。
しかし、一方で大学進学までを強要するようなこともなかった。
基本的にやりたいようにやれというスタンスだった。
その代わり、環境はかなり充実していた。幼少期から家には壁一面埋めるくらいの本があった。歴史上の人物の漫画や児童文学、天体や生物に関する図鑑、古文・漢文、和歌に関する漫画、算数に関する漫画などなど…小学校に上るくらいにはそれらをよく読んでいてなんとなく勉強(?)をしていた。のちに勉強が割りと好きになれたのはこのおかげかなと思っている。恵まれていた、と思う。


彼女はある意味、子供を子供として扱ってはいなかった。
常に大人と同じように話しかけられていたし、どうするのかの最終決定権は常に委ねられていた。
さまざまな選択の余地、選択肢を提示することはしていたが、決定権は私にあった。進学についてもそうだし、学校に行くのか行かないのかもそうであった。行きたくないなら行かなければいい。そう言うスタンスだった。(基本的に通常通り通っていたけど。)

人生の選択において常に対等であった。
この対等な関係を維持できたのは、彼女が教育費として1人あたりこれだけ用意している。それをどう使うのかは本人たちに委ねる。という彼女なりのブレない信念があったからなのか。

物心ついたときには、あなた達には一人あたりいくら教育費として用意するから、その中で好きにしなさい。逆に言うと、それ以上は出さないのでそこを越える分は自分でなんとかしなさい、と言われていた。
最初は訳が分からなかったが、中学進学の頃から、進学にかかる費用などは自分で調べていた。今思えば進学費用についてさほど心配もせず過ごせたことは幸せである。


彼女を間近で見て育った私には、彼女のように子供を育てる自信は正直ない。
もし、子供が欲しいと思う時が来るのであれば1人でも育てられるだけの計画が立てられた時なのかな〜と思ったりする。
人はいついなくなるか分からないし、死別でなくとも離婚をする、パートナーが働けなくなる、自身の収入が途絶えるなど、リスクは考えれば考えるほど出てくる。

それでも、私を産んだ責任と、教育の義務を全うして、ここまで育ててくれた彼女には尊敬と感謝の念しかない。

残りの人生を彼女の好きなように、楽しく生きて欲しいと思う。


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