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【ショートショート】不完全犯罪

翔子の朝は冷たい水で濡れタオルを作ることから始まる。
昨夜使っている内にすっかりぬるくなってしまったタオルを洗面所でゆすぎ、冷水でキンキンにしてから絞った。

ゴワゴワした冷たいタオルをそうっと顔に当てる。
やはりひどく痛い。
ふと、洗面所の鏡を見る。

右目のまぶたが腫れ上がり、左頬の痣は赤紫色になっていた。
唇の端も切れ、乾いた血が凝固している。

温まってきたタオルをまた水で冷やし、それを頬や目に当てたが気休め程度にしかならなかった。

今日は学校に行けないな。

スマホを取り出し通話アプリを開いた。
発信履歴の一番上にある番号を押す。

「2-Aの森です。体調が悪いので今日は休みます」

相手は事務的に「お大事に」とだけ言う。
教師ではないから、根掘り葉掘り聞いてこないので助かる。
アルバイト先の居酒屋はまだ誰も来ていないから午後に連絡しよう。

急に空腹を覚えて翔子は溜息をついた。
この顔では学校どころか外に出ることもできない。

キッチンに行き、冷蔵庫を開いて食べられそうな品を物色する。
賞味期限が2日前に切れた食パンが一切れあった。
他には酒のつまみらしき物が入っていたが、これは多分手を出さないほうがいいやつだ。

口をゆすいでからパサパサのパンを少しかじる。
みるみる内にパンに血の味が染みていって、食欲が失せた。

自室のベッドに戻り、読みかけの推理小説を手に取る。
しかし片目が半分しか開かないので読みにくい。
諦めて目を閉じた。

最近翔子が考えるのはいつも同じこと。
どうやったらあいつを消せるかだ。
殺すことは多分そこまで難しくない。
泥酔して寝ているところを包丁で刺すか、首を絞めればいい。

もしくはゴルフクラブで頭部を殴打する。
ナイスショット。
ゴルフ部にでも入部しようか。

問題は、翔子が手を下せば警察に捕まってしまうということだ。
あいつのために人生を棒に振るなんておかしい。
もうだいぶ振っているのに、これ以上はごめんだ。

気まぐれにYouTubeで女子ゴルファーの「シャンクを直す!初心者向けレッスン」という動画を見ていたら眠気が襲ってきた。
この顔ならあいつも手を出して来ないだろうし、今日の夜はゆっくり眠れそうだ。
スマホを消し、翔子はまどろみに身を委ねた。



侑司がバイト先の居酒屋に到着したのは出勤5分前だった。
大学のミステリサークルに顔を出していたら、ついつい夢中で持論を展開してしまい、ギリギリのところで時間に気付いて自転車を飛ばしてきたのだ。

裏口から休憩室に入ると、同じくアルバイトの女子高生・翔子がスマホをつまらなそうに見ていた。

「おはよ。1週間ぶり?」
「おはよございます。すいません、先週休んじゃって…」

翔子が申し訳無さそうに頭を下げると、艶のある髪がさらりと音を立てる。
その顔には痛々しそうに絆創膏が貼られていた。
目の上はまだ腫れているのか、普段は猫のような吊り目が今日は垂れ目になっている。

「階段から落ちたって言ってたけど、前は顔面から転んだ、だっけ。いやいや、そんな転ぶ?」
「ボーッとしてること多くて、はは…」

茶化して言うと翔子は苦笑いを返したが、侑司もそこまで馬鹿ではなかった。
彼女は自分の事情を語ろうとしないが、家庭になんらかの問題を抱えていることは明らかだ。
なにより、こんな可愛い子を傷つける奴は許せない、という義憤に侑司は駆られていた。

なんとか問題を解決してあげたい。
できればこの手で。

「翔子ちゃんさ、今度の日曜日、映画でも行かない?ほら、前に見に行きたいって言ってたやつ」
「あ、あー…。直木賞原作のやつですよね?はい、行きたいです」

約束を取り付けた侑司は、営業中にいつもより張り切って「いらっしゃいませー!」の声を出し、店長に「うるさい」と注意された。
その様子を見てホールの翔子がクスクス笑っている。

これはイケる。ってやつだ。

侑司は焼き場でねぎまを返しながら、頭の中で当日をあれこれシミュレートし始めた。



日曜日。
待ち合わせの新宿駅に現れた翔子は、健康的な太ももを露わにしたショートパンツ姿だった。
思わず喉を鳴らした侑司だったが、彼女の顔には前回と別の場所に大きな絆創膏が貼られている。

「大丈夫?」
「あ、全然。大したことないんで。それより早く行きましょう」

質問を振り切るかのように翔子が歩き出す。
気の利いた言葉を持ち合わせていない自分に嫌気が差しながら、侑司はその後をあわてて追いかけた。

「いやー、面白かったなぁ。まさかあんなトリックだったなんて」
「本当に。原作読んでなくて逆に良かったです」

映画の後に入ったカフェで、お互いに感想を言い合う。
連続殺人事件の作品はデートに不向きではないかと危惧していたが、翔子もミステリ好きだったため、高評価を得られて侑司は胸を撫で下ろした。

「翔子ちゃんにも、誰か殺したい相手がいたりして?」

ちょっとしたジャブのつもりで口にしたが、すぐに後悔した。
翔子は笑顔を消して視線を落とすと、アイスカフェラテに刺さった緑のストローを指でいじり始める。

いつもそうだ。
俺はすぐに先走ってしまう。

焦る侑司が言葉を探していると、ふいに翔子が口を開いた。

「いますよ」

小さな、けれどはっきりとした声で言うと、彼女はゆっくり視線を上げた。
その真剣な眼差しに、侑司も同じぐらい真剣な瞳で応える。

大丈夫。
君のことは俺が守る。



「前に読んだ小説に、死体が見つからなければそもそも殺人事件にはならないって書いてあったんだ。行方不明者として届けられるだけだからね。知ってる?日本では年間約8万人が行方不明になってるんだよ」

興奮気味に話す侑司とは対照的に、翔子は頭が冷えていくのを感じていた。
彼は翔子を抱いた後で計画を話し始めたのだが、自分の考えに酔っているようで、その目は翔子を見ていない。

決行日の深夜。
黒のワゴン車をレンタルしてきた侑司が家にやってきた。
事前に入念な準備と下調べをしていたおかげで、コトは拍子抜けするほどスルスルと進んだ。

山中に死体を埋めるのではなく急斜面から投棄し、たとえ発見されても転落死に見せかける。
完全犯罪の成立だ。

大仕事をやってのけた高揚感からか、我慢できなくなった侑司が車の中で翔子に覆いかぶさる。

「もう大丈夫だよ、俺が守るからね、俺がずっと翔子ちゃんの側にいるから。俺だけの…俺だけのものだよ、翔子…」

無理矢理入ってくる痛みに顔をしかめながら、翔子は車の天井をぼんやり眺めた。

あぁ、この人もだ。
また、誰かに殺してもらわなくちゃ。



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