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【映画レポ】無関心は悪なのか|ジョナサン・グレイザー監督「関心領域」

第76回カンヌ国際映画祭においてグランプリを獲得し、第96回アカデミー賞では国際長編映画賞と音響賞を受賞した映画「関心領域」。

この記事では感想と共に個人的な考察を綴ってみたい。
なおネタバレを含むので、まだ観ていない人・細かい内容を知りたくない人はご注意ください。



タイトルの妙

まずはあらすじから。

第二次世界大戦中の1945年。
ユダヤ人が強制的に集められたアウシュビッツ収容所の所長、ルドルフ・ヘスは家族と共に幸せに暮らしていた。
美しい妻と健やかな子どもたち、住みやすい屋敷と季節によって色合いを変える花と緑の庭園。
何不自由ない、人の羨むような暮らし。
ただ一点、壁一枚隔てた向こう側から毎日銃声や絶叫が聞こえてくることを除けば。

監督のジョナサン・グレイザーはCMやMV畑出身の人物。
ジャミロクワイの「ヴァーチャル・インサニティ」を撮った人、と言ったほうが分かりやすいかもしれない。

ベルトコンベアを用いた、当時としては画期的な映像に一躍注目を浴びた。
「関心領域」でも定点カメラやサーモグラフィーなど、彼独特の撮影技法が随所に見られる。

タイトルになっている関心領域(The Zone of Interest)という言葉だが、当時ドイツの占領地であったポーランド・オシフィエンチム郊外にある「アウシュヴィッツ強制収容所を取り囲む40平方キロメートルの地域」を表して使われていたものだ。

この言葉、日本語の直訳が与えるインパクトが凄い。
観る前から観客に「あなたはかつての悲劇について関心がありますか?それともありませんか?」と喉元に突き付けてくる鋭さがある。



集中力が必要な映画

通常、映画は舞台背景や時代設定、さらには登場人物の肩書き・属性などを作中で示していく必要がある。
説明口調になりすぎない程度にセリフで喋らせたり、時には字幕やナレーションが付いたり。

ところが本作は説明があまりにも少ない、というかほとんど無い。
観客は「アウシュビッツの隣に住んでいる所長一家の話」程度の事前情報は得ているが、登場人物たちの個性や関係性、さらには「何が起きているのか」までを自分で映像から読み取らなくてはならないのだ。

セリフの字幕を一字一句読み漏らさないよう、そしてスクリーンに映る僅かな情報を見逃すまいとする集中力が必要となる。
正直、とても疲れる映画だと言っていい。



真に無関心なのはたったひとり

さてここからは考察だ。
本作は一見すると「隣で起きている悲劇に対する一家の無関心さ」がメインのように思われる。
しかし本当にそうだろうか。

収容所の所長であり一家の主のルドルフは、悪名高い「ガス室」を推進した人物だ。
真に冷徹な、問答無用で殺される隣人に何も関心を示さない人間に思われてもおかしくない。

けれども彼は階段の踊り場で突然嘔吐するなど、重度のストレスを抱えている描写がいくつか見受けられる。
本当は無関心でいることに耐えられないからこその、心の叫びなのだろう。

一方、妻・ヘイトヴィヒは違う。
ユダヤ人から取り上げた毛皮のコートを平気で羽織り、毎夜聞こえてくる悲鳴を物ともせずグッスリ眠り、収容所の遺灰が撒かれた花壇の花を「綺麗ね」と評するのだ。

さらには夫の転勤に際して「私はここを離れたくない。ヒトラー(総統)に直談判してよ」などと言い出す始末。
呆気に取られてしまう。

遊びに来たヘイトヴィヒの母が「こんな残酷な場所には居られない」とばかりに夜中に逃げ帰ったことからも、異常な住環境だったことは明らかだ。
それでもヘイトヴィヒはこの家に固執した。
「私『アウシュビッツの女王』なんて言われてるらしいの」と得意げに話す彼女こそが、真の無関心なのではないか。



アウシュビッツ博物館のシーンについて

作中の終盤、突如として現代のアウシュビッツ博物館の清掃シーンが挿入される。
かつてガス室だった部屋の床を箒で掃き、収容者の遺品が展示されるガラスケースの窓を拭く職員たち。

あまりにも唐突なため戸惑う人も多いだろう。
私もこのシーンの意味についてしばらく考えた。
一個人の見解としてだが、あれは無関心の必要性を表しているのではないか。

アウシュビッツ博物館の清掃員は、悲惨な歴史の展示物を毎日見ながら働いている。
それらに感情移入し、一々心を痛めていては仕事にならない。
だから無関心であることが必要なのだ。

おそらく世界中の、悲劇的な歴史を伝える資料館全てに共通して言えることだろう。
鎮魂の祈りが求められる職場であろうとも、職員もひとりの人間である。
来館者には厳かな表情をしてみせても、休憩中には冗談を言って笑ったり週末の予定を楽しげに話したりもするはずだ。

過去に思いを馳せてばかりでは、人は生きていけないのだから。



無関心は人のさが

所長の妻・ヘイトヴィヒこそが「真の無関心」と先に述べたが、だからといって特別な悪人だとは思わない。
たとえば彼女が死にゆく隣人に対して毎日神に祈りを捧げたり、あるいは「収容所の隣」ではなく別の場所に住んだとしても、殺戮ホロコーストを止めることは不可能だ。

関心を寄せることが全てではない。
自分以外に無関心になれるからこそ、人は自分の人生を主人公として生きていける。

遠い場所で不意に起こる悲劇に際して関心を持ち、心を痛め涙を流すことはあってもいいが、その行為自体に特に意味はない。
真に想いを寄せるなら、身の危険もかえりみずにリンゴを収容所内に置いた少女のように、寄付や支援活動をするべきだろう。

無関心は悪ではない。
関心がありながら何もしないことのほうが余程悪ではないだろうか。


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