冷えたごはんが、すき。
お弁当の冷えたごはんが、大好きだった。
ママが、私よりもずっと早く起きて作ったから、お弁当のごはんは冷えている。それがたまらなく美味しかった。
同じくらい、ぬるくなったリンゴも好きだった。ウサギ耳に切られた皮にいつも胸が躍った。
幼稚園のときでも高校に入ってからもその気持ちは変わらなかった。
ぬるくてまずくて、優しくて美味しいりんご。
最近、お店への自粛要請で、神楽坂もめっきり人が減った。シャッターの降りた街の中、申し訳なさそうに開けている店も病弱な顔をしている。いっしょうけんめい「ありがとうございました!」をいう笑顔がとても痛そうだ。
ぬるま湯のような神楽坂の、のんびりした人と人のつながりが大好きだし、私にとって店で過ごすことは息をするように当たり前で欠かせない時間になっている。
そんな神楽坂も、大きな世の渦に吸い込まれていくように、テイクアウトやランチのお弁当に力を入れるお店が増えた。
お昼どきになると、道のそこここで名店のおいしそうなお料理が800円とか1000円とか、お値打ちな弁当詰めになっている。
「生き残るため」ももちろんあるだろう。だけど絶対喜んでもらいたい、また食べたいって思ってもらえるように…という気配がお弁当からにじみ出ている。お弁当が明るい。「赤字にならないか?」と心配になるような品々が並ぶ。心の中で全ての店へ敬礼する。
その活気をくぐりぬけ私はひとり裏路地へ。4年ほど通い続けているイタリアンへ足を運ぶ。
「今日はどう?売れてる?」
「まぁまぁかな。」と片眉を上げながら店主が笑う。
「ラザニアとカポナータのお弁当ちょうだい。」
「OK。この容器、チンできるからね!」
「ありがとう。でもそのままでいいな。冷たくてもおいしい?」
「美味しいはずだよ?」
「そっか。じゃあこのまま食べるね!わたし冷えたお弁当好きなの」
「変わってるねぇ。いつもありがと。」
「お互いさま。つぶれないでよ!」
次の仕事に向けて小走りでアトリエに向かう。到着したらすぐに触ったもの全ての消毒を済ませる。慣れたものだ。いつもの春より手が荒れている。
案の定、冷たいラザニアもカポナータも美味しかった。一人でいても顔が緩んでしまうほどあったかい味だった。
何時間前から仕込んでいるんだろう。もちもちのラザニアは冷えてもチーズがトロトロのままで驚いた。
彼らはどんな気持ちでこの料理を作ったんだろう。上昇する感情と一緒に喉が熱くなった。
身体の奥の方が誰かの淋しさで満たされる。底の深さがわからない砂の中に音もなく引きずり込まれるみたいだ。なのに気持ちいい。
この、優しくて淋しくて、小さな冷えたお弁当をあと何日食べられるだろう。あと何日、食べなければならないだろう。
私は今しか見られない美しいものというのが儚くて好きだ。
特に、人間のすることにはどこかに必ず終わりがあって、それを意識しているからちょっぴり寂しそうで、それがたまらなく美しい。
「冷えたごはんが、私はすき。」
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