赤ちゃんのバイバイ

忘れもしない、去年のクリスマス。12月25日のことだった。

隣の席の若者が、突然さっと席を立った。朝の地下鉄丸ノ内線での出来事である。荻窪発池袋行き。僕は会社に向かっていた。

『ほーう、えらいえらい。今どきの若者にしては』

と僕はその光景をぼんやりと眺めていた。おそらく大学生ぐらいの若者の意図はすぐにわかった。赤ちゃんを抱いた若いお母さんに席を譲ったのである。

お母さんが彼に礼をいい腰かける。するとなんということだ。僕の顔の横にちょうど赤ちゃんの顔がきたのである。お母さんに抱っこされて。髪は生え揃っているから、おそらく二才ぐらいだろう。女の子だった。普通、これぐらいの年齢であればお母さんにべったりとなる筈だ。

ところがその子は僕に笑いかけてきたのである。

その上、

「バイバイ」

でもする様に小さな左手を振ってくれているのだ。

『これは、応えなきゃ』

どうするんだどうするんだ、みたいに周囲の乗客の目線が自分に集まっていることも感じ、僕はその子にぎこちなく笑顔を向け、右手をちいさく振り返した。

女の子は喜んだ。ますます激しく、「バイバイ」のようにその小さな手を振ってくるのである。あれは「バイバイ」ではなく「ハローハロー」だったのかもしれない。皇室の方々が沿道の一般市民に手を振って応えるが如く。

彼女はよほど僕のリアクションが気に入ったらしく、ずっとニコニコしながら手を振り続けてくる。

僕はなんとか彼女に手を振り返し応え続けた。周りの視線がどんどんあたたかくなっていくことを感じながら。何と、中野坂上から国会議事堂前まで。

僕はこの駅で千代田線に乗り換える。ついに別れの時がきた。

「バイバイ」

といい僕が席を立とうとしたその瞬間、女の子のちっちゃな手が握手を求めるように差し出された。手の平のサイズからして握手はできない。僕は人差し指をそっと彼女に差し出した。すると女の子はそのちいさく柔らかな手の平で僕の指をそっと握ってくれたのである。

少子化がなんだ。赤ちゃんに不寛容な社会がなんだ。

メリークリスマス。それは僕にとって、そして周りの乗客にとって、とても素敵なクリスマス・プレゼントとなったのだ。



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