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一反木綿

 一反というと、およそ十メートルである。
 これはかなりの長さだ。幅は九寸というから約三十四センチ。
 そんな布が、どこからともなく飛んで来て、人を襲うというのである。身体に巻き付き、自由を奪い首を締め上げる——
「まあ怖い」
 女学生の一人が声をあげた。宮里静子である。グループのリーダーだった。いよいよ戦況は逼迫し、女子高生が救命隊員として戦場に赴くことになったのだ。「で、そのお化け、何ていうの?」
「一反木綿」
 答えたのはその後ろを歩く大城さつき。やはり女子高生の救命隊員だ。文芸部に所属している。本好きで物知りの女の子だ。極度の近視で黒いセルフレームの眼鏡をかけていた。
「そんなものが飛んで来たら、あたしとっ捕まえて着物をこしらえてしまうわ」
 とおどけて強気の発言をしたのはしんがりを歩く仲村こずえ。バレーボール部のキャプテンで長身の女学生だった。「キャプテン」とあだ名で呼ばれている。
 女学生たちは、こずえのこの発言に声をたててけらけらと笑った。
「それじゃ一反木綿も形無しだわ」
 とさつきが不服そうに言った。
「だって、一反といったら丁度着物一着分の布なのよ」
 とこずえが言い返す。
「あら。仲村さんには一反じゃ足らないと思うわ。だってそんなに背が高いんですもの。一反じゃきっとつんつるてんになってしまうわ」
 先頭を行く静子がふり向いて言った。確かに、身体を屈め、頭を低くして洞窟を歩いているのはこずえ一人だ。
 彼女たちがいるのはガマという洞窟である。ガマというのは方言だ。彼女たちは、野戦病院に使えるような新しいガマを探すべく、探索に来ているのだ。
 自然の洞窟であるから、基本内部は真っ暗だ。照明なんてない。頼りになるのは先頭を行く静子が持つランタンの灯りだけだった。
 本当は、とても心細い。
『大城さんは、何もこんな所で一反木綿の話なんてするべきじゃなかったのよ』
 静子は口には出さず、さつきを非難した。真の暗闇というのは、それだけでも恐怖心を煽るのだ。
 そこから十メートルほど歩くと、急に中が開けた。入り口の狭さからは想像もつかない広大な空間が広がっているようだった。そこから先は長身の仲村こずえが普通に立って歩いても問題はなかった。三人は洞窟の天井に頭をぶつけることを気にすることなく、リラックスして歩き始めた。どこかで天井に穴が開いていて外と繋がっているらしく、時おり穏やかな風が吹き込んできてはランタンの炎を揺らした。
「ここはいいわね」
 静子は大きく息を吸った。ランタンで奥を照らすと更に空間が広がっているようである。「とても広いし奥行きもある。病人や怪我人を運ぶにはもってこいの場所だわ」
「ね、あたしの言った通りだったでしょ」
 静子の背後からちょっぴり自慢げに声をかけてきたのは、一反木綿の話をした大城さつきだった。
「そうね」
 静子は冷静に頷いた。「もう少し、奥まで行ってみましょう」
 三人は、静子の掲げるランタンの灯りを頼りに更に奥に進んだ。進むにつれ、天井は高く、幅と奥行きは広くなっていくようだった。そして吹き抜ける風の強さも増してきた。
 その時——
「ちょっと、あれ」
 声を発したのは最後尾を歩いていたバレーボール部のキャプテン、こずえだった。静子とさつきがふり向くと、ランタンが照らし出す遥か先の天井の辺りを指さしている。
「何よ——」
 こずえの指さす天井の方向に静子とさつきは目を向けた。静子は息を飲み、さつきは絶叫した。
 そこにはひらひらと、細長い白い布が揺れていたのだ。
「一反、木綿……?」
 こずえが呟いた。いきなり恐怖が限界に達した。三人は「ワーッ」と声を発し、身を翻すと元来た方向へてんでんばらに駆け出した。

 狭い洞窟の入り口から転がり出ると、南国の強い日差しが三人の顔を射た。三人はそのばにしゃがんで荒い息を吐いた。
 やがて呼吸が落ち着いてきた。三人はお互いの無事を確かめるように顔を見合わせた。
「……出たね」
 こずえが呟いた。それがきっかけとなり、まずさつきがこずえに抱きついてわんわんと泣き始めた。静子もそれに倣った。三人はお互いの肩を抱き、わんわんと泣いた。
 涙が枯れるほどまで泣くと、さすがに落ち着いてきた。
「……本当にいたね」
 低い声で静子が言った。
「ほんとに」
 ちょっと野太い声のこずえが応えた。
「あたしが……あんなことを言い出さなければ」
 まだしゃくり上げながらさつきが言った。
「でも……本当に本当だったのかしら」
 と呟いたのは学級委員長の静子である。「本当にあれ、お化けだったのかな」
「だって見たじゃない」
 反論したのはこずえである。「あたしははっきりと見たよ。白い妖怪が揺れているのを」
「今にも襲いかかってきそうで怖かった」
 さつきがすかさず賛成した。「はっきりと、見た」
「私も見たよ。でもあれがお化けだったかどうか……ちょっと確信が持てないの」
 静子は二人に顔を向けた。涙は乾いていた。もう泣いてはいなかった。そこには「学年一の優等生」の顔があった。正義感、責任感に溢れた顔だ。
「もう一度、確かめた方がいいと思うの」
 と静子は言った。
 その後しばらく三人で議論になった。さつきはもう一度洞窟に入るのは御免だと言い張った。こずえは中立。態度を保留した。
「何を言ってるの大城さん。お国のためなのよ。ガマの中の安全を確かめるのは。陛下のためなの」
 静子はさつきの両肩を掴み、揺さぶりをかけながら説得にかかった。
「だって……」
 さつきはまだ涙目である。「怖いんだもん」
「天皇陛下万歳、か」
 こずえがもんぺの埃を払いながら立ち上がった。「あたし、付き合うよ。行こう」
 結局、さつきは入り口の外に残ることになった。
「一時間たっても私たちが戻らなかったら先生に知らせて」
 とさつきの目をしっかり見詰めて言い残すと、静子は再びガマの中へ入って行った。
「じゃ、そういう事で」
 長身のこずえがその後に続いた。

「ランタンの油は大丈夫なの?」
 こずえは先を行く静子の背中に声をかけた。さっきはさつきのパニックにつられて逃げ出してしまった、その事を恥じていた。こんなやわな根性では鬼畜米英に勝てないだろう、これでは陛下に合わせる顔がないと思っていた。天皇陛下に会ったことはなかったけど。
「大丈夫よ。このランタンは優秀なの。油もまだたっぷりある」
 と静子は答えた。
「ふーん、そうなんだ」
 こずえが後ろから足を早めてランタンを覗き込んだ。
「ちょっとこれ、アメリカ製じゃないの?」
「そうよ。だから」
 静子は平然と答えた。これは、アメリカ軍が落としていったものを使っているのである。アメリカ製は本当に優秀で、日本軍の使用しているものなどお話にならない。こうした小物一つとってみても、アメリカ軍の優位は動かないのでは、と静子は実は思っていた。日本は負ける。必ず負ける。だがそのことは決して口に出してはいけないことだった。
「大丈夫なの?」
 こずえが聞いてきた。つまり、ランタンの性能ではなく、敵国製品を使っていることが大丈夫なのかと心配しているのだ。このご時世、もっともな考えである。
「大人に見つからなければ大丈夫よ」
 静子は平然と答えた。こういうところは肝が据わっている。しかしやはり先程の行動は恥じていた。一枚の白い布切れに恐れをなして逃げ帰ったのである。皇国の乙女としてそれはどうなんだ? 今度は何があってもあの布の正体を見極めてやるのだと心に決めていた。
「まあ、そうかもしれないけど」
 こずえは何だか納得してない様子である。
「だって、アメリカ製の方が圧倒的に性能がいいんだから、仕方ないでしょう」
「まあ、そうなんだけどねえ……」
「明るくて、照らす範囲が広いんだから。燃料だってもちがいいし」
「そうは言ってもねえ」
 と言いながらこずえは後ろに下がった。決して心から納得はしてないようだった。
 その後二人は無言で奥まで進んだ。逃げ帰ったとはいえ、一度は体験したルートである。足が慣れていた。不思議なものである。すいすいと前に進むことができた。
 ほどなくあの広いスペースに行き着いた。吹き抜ける風が強くなり、静子はランタンを高く掲げて奥の方、特に天井の辺りを照らした。暗がりの中にぼうっと、あの細長い布が浮かび上がった。
「おい、コラ!」
 静子がいきなり、その布に向かって叫んだ。「私たち、怖くないからね!」
 もしも妖怪ならば怒って立ち向かってくるかと思ったのだが、その気配は無いようだ。布はひたすら、一定の位置でゆらりゆらり、ふわふわと揺れていた。
「バカヤロー!」
 今度は静子の背後でこずえが叫んだ。「怖くなんかないぞ!」
 静子より野太い、大きな声だった。しかし布は特に反応せず、ゆらゆら揺れているだけである。静子とこずえは顔を見合わせた。
「近くまで行ってみましょう」
 静子がこずえに提案した。こずえは頷いた。
 二人はそろそろと布に近付いて行った。もし布が突然襲いかかって来たら、いつでも逃げ出せるよう、布を注視したままである。
 しかし布は襲いかかっては来なかった。その気配もいっこうに無い。遂に二人は布の間近に到着した。二人は布を真剣に眺め、それから顔を見合わせた。
「ふんどしだ」
 二人同時に、言った。そしてぷっと吹き出した。急に可笑しさがこみ上げて来て、げらげらと笑った。しばらく笑いが止まらなかった。それはどう見ても、日本男子の装着するふんどしだった。洗って干してあったのだ。
「ふんどし!」
「ふんどし!」
 二人は風に揺れる白いふんどしを指さし、お互いの顔を見ては笑い転げた。
 やがて笑いも収まってきた。二人はその場にへなへなと座り込んだ。緊張の糸が、ぷっつりと切れたのである。
「それにしても、ふんどしだったとはねえ」
 こずえが風に吹かれてゆらりと揺れるふんどしを見上げた。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花ってこのことよね」
 静子もまた、ふんどしを見上げた。「一反木綿の正体がこれかあ」
「それはそうと、このふんどしの持ち主どこに行っちゃったのかしら」
 こずえがふいに呟いた。真顔に戻っていた。
「そうね……辺りを探してみましょうか」
 やはり真顔になった静子がランタンを持ち上げた。

 洞窟は更に奥まで続いていた。しかし奥に進むにつれ、洞窟は狭くなった。やがて突き当たりと思われる場所に到達した。静子がランタンで岩壁を照らすと、ひとつの白骨死体があった。両脚を前に投げ出し、壁にもたれかかるような姿勢で死んでいた。頭には日本軍の帽子を被っていた。
 今度は静子もこずえも、悲鳴はあげなかった。それほど死体を見慣れていたということである。外に出ればあちこちに死体があった。死はそこら中に転がっていた。白骨死体はそのバリエーションの一つに過ぎなかった。
「だいぶ前に死んだようだね」
 白骨を見下ろし、淡々とした口調でこずえが言った。
「このガマに逃げ込んで来て、ふんどしを洗って干して、奥まで来て何かの原因で死んだ、そういうことかしら」
 静子がランタンで、改めて白骨死体の顔を照らした。当然のことながら、死体は何一つ語らない。
「そんなところでしょうね」
「軍隊や軍人は、私たちを守ってくれないよね」
「そうだね」
「とんだ一反木綿だったね」
「そうだね」
 二人はふり返って洞窟の入り口の方を見た。天井から吊るされた白い布が、相変わらず風に吹かれてひらひらと揺れていた。

(了)

 


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