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チロエの漁師〜人が死んではいけない理由〜

 チロエの漁師に、尋ねたことがある。
「人間どうして、自殺してはいけないのでしょうか?」
 日本は自殺が多い国だという話の流れだった。
 漁師は暫くの間、何も答えなかった。
 時は夕暮れ、わたしたちはチロエ島の海岸で焚き火を囲んで向き合っていた。
 チロエは南米パタゴニア最大の島で、チリの領土である。かつては南米先住民がたくさん暮らしていた筈だが、今は一人もいない。混血の子孫に、その面影を見るだけである。
 わたしがこの島に渡ったのは、民話の収集のためだった。チロエは「南米民話のふるさと」と呼ばれている島なのだ。妖精や妖怪、幽霊、怪物の話が幾つも残されている。確かにそういう雰囲気が色濃く残る島である。深い森、干満の激しいたくさんの入り江、18世紀の木造教会――
 人々の多くは漁師を生業としている。民話は口伝で語り継がれてきた。村の長老、といわれる様な人に語りの名手が多い。わたしが焚き火を挟んで向き合っている漁師もその一人だった。わたしは何度か海辺にある彼の住居を訪ね、そこそこ親しくなり、何話かの民話を直接彼の口から聞くことが出来たのである。
 その日聞いたのは、船幽霊の話だった。ピンコーヤと呼ばれる魔物である。彼らは幽霊船の乗組員であり、幽霊船自体が魔物ともいえる存在である。海上で突然にぎやかな音楽が聞こえてくるのは彼らの仕業だと言われている。ある時はただ幽霊船として出現するだけだったりもする。巨大な幽霊線が漁船の前を横切るのだ。時には乗組員たちが柄杓を持って漁船に乗り込んできて水を入れ、沈没させようとしたりもするという気まぐれで恐ろしい海の妖怪である。
 そういう話を、その日わたしは夕暮れの海岸で、焚き火を前にして彼の口から直接聞いたのである。
 彼の語りは、一日一話に限定されていた。それ以上はどうにも疲れるというのである。集中力が続かないのだ、と。
 民話が終わった後、わたし達はしばし雑談を楽しむのであった。そして自殺の話となった。
 南米では自殺する人は極めて少ないそうである。ラテンだから、とひと言で片付けてしまうのは簡単だが、理由はそれだけではないだろう。
「私には、孫が一人いるんです」
 と彼は突然話し始めた。彼の話し方はいつもこのような感じで急に始まる。
「今は少し離れたところに暮らしていますが、私は孫が今日一日を元気に過ごしてくれれば、とても嬉しいと思います」
 彼は焚き火から顔を上げて、わたしの顔を見つめた。「わかりますか?」
「はい」
 とわたしは答えた。
 チロエの漁師はわたしの顔から目を動かさなかった。
(本当にこの男は自分の話した内容を理解しているのだろうか……)
 そのことを見極めようとするかの如く。
 やがて彼は再び焚き火の方に目を向けた。
「あなたのおじいさんだって同じことです。まだ存命ですか?」
「いえ……祖父はもう、十年以上前に亡くなっています」
「そうですか」
 チロエの漁師は再び顔を上げた。
「でも同じことです。あなたのおじいさんは、あなたがこうして今日、生きていること、無事に一日を過ごしているだけで喜んでいる筈です」
 わたしは頷いた。何となく、彼が伝えようとしていることが分かりかけていた。
 チロエの漁師は、再び顔を上げ、わたしの目をまっすぐ見つめて言った。
「だからあなたは死んではいけないのです。出来るだけ生き続けなければいけません。ただ生きているだけでいいのです。ぶじに一日を過ごしてくれれば、尚いいのです」
 わたしは頷くことしか出来なかった。彼の言葉があまりに深く、心に染み入ってきたからだ。
「自殺なんでよくないのは当たり前です。まだ生きていられるのに、自分で自分の命を絶つのはよくない事です」
 そういうことを、誰かがわたしに直接言ってくれたことはこれ迄なかった。
「あなたが生きているだけで喜んでいる人がどこかにいる、そのことを忘れないでください」
「わかりました」
 わたしは素直に彼に頭を下げた。チロエの漁師は再び焚き火に目を戻すと、
「あなたのおじいさんだけではありません。あなたのおばあさん、お父さん、お母さん、そのずっと前の先祖の人たちも、あなたがただ生きて、日々を過ごしてくれているだけで喜びます」
 と言った。
 いつしか日はとっぷりと暮れていた。入り江の潮は引き、海底にあった黒い平らな岩が現れていた。焚き火の炎はずいぶんと小さくなり、その代わりにやけに明るい月がまんべんなく辺りの景色を照らし、浮かび上がらせていた。チロエの漁師はゆっくりと立ち上がった。今日の話は終わったようだった。
「また明け方には潮が満ちてきます。私は漁に出ます」
 そう言い残して彼は、自分の家へと続く小道をゆっくりと歩き去った。


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