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旅先でぼられた話

 わたしは国内海外をひたすら旅して回るような仕事に長年携わってきた。しかし、これだけ旅をしているにも関わらず、旅先でぼられた記憶があまりない。いや、あまりというか、ほとんどなかった。
 ついこの間までは。
 まさか国内で、しかも治安の比較的安定した地方都市で、しかも駅そばの居酒屋で――ぼられることになろうとは、夢にも思わないことだった。
 現場は、杜の都仙台である。仕事で縁があり、ずいぶんと通わせてもらっている。個人的にもとても好きな街だ。なんだか、「丁度いい」感がある。都会だけど、大きすぎず小さすぎず、地方都市だけど人通りがある。寂しいシャッター通りが延々と続く街とは大違いだ。夜になってもそこそこのにぎわい感がある。人がある程度多いということは、いいお店、つまりレベルの高い飲食店も多いということにつながる。私は酒呑みだがいわゆる濃厚接触系の店には行かない。だからぼったくりの被害とは縁がない。仙台は安心して呑める街のはずだった。あんな目に遭うまでは。
 仙台駅東口の近くに、〔びっくR〕という居酒屋がある。ぽつんと一軒離れたところにあるという印象の店だ。もともと東口には居酒屋はそれほど多くないので、夕方ぶらぶら歩いていると赤提灯とのれんがひどく魅力的に誘いかけてくる。店は、建て替えはしたかもしれないが、そこそこ古い印象の構えである。駅前の再開発にひとり抵抗して居座った風情なのだ。たぶん、当たらずとも遠からずといったところだろう。ゴネ得で居座ったような――ぼったくりに遭った後ではそう思う。
 わたしは日本中を旅していて見知らぬ店に飛び込んだ経験も普通の人よりはかなりある。酒場に関しては「鼻は利く」つもりだった。〔びっくR〕の第一印象は鼻に響いた。
――これは、いい店かもしれない。
 と思い、入ってみることにした。ちょっとひっかかりがあったのは、財布の中に万札しか入っていないことだった。ATMで五万円、おろしたばかりだったのだ。
――もし入ったが失敗で、すぐ出ることになったら一万円札で釣りをもらうのも気がひけるなあ。
 とちらり思ったのだが、かといって駅やコンビニでちょっとした買い物、あるいはクレジットカードに現金チャージするなどしてお金を崩すのも面倒だった。赤提灯とのれんを見た瞬間、ビールが飲みたくてたまらなくなってしまったのだ。
――えーい、ままよ。
 わたしは深く考えずにのれんをくぐった。しかしこの時、両替をせず細かいお金を持っていなかったことが悲劇につながる。
 店はいい雰囲気だった。コの字カウンターがあり、店内はほどよく煤けている。壁に貼ってある古びた短冊メニュウを眺めると、朝鮮半島系の酒と料理の店であった。カウンターの中には、ちょっと癖のありそうな年老いた女性がいた。話す言葉に耳を傾けると、やはり朝鮮半島系の人のようだった。
――北か、南か。
 そんなこともふと思ったが、まあどうでもいいことだった。要はいい雰囲気とうまい酒とアテがあればいいのである。とりあえずと瓶ビールを注文するとよく冷えていた。つきだしは小皿に持ったナムル、これもよい。店の名物であるらしい唐辛子入りの煮込みなどを発注し、酒は半島系焼酎のお湯割に移行する。どれもこれも合格であった。カウンターの中のちょっと気難しそうな婆さん、つまり女主人ともやがて打ち解けたような雰囲気になり、多少会話もはずんだ。
――いい酒場を見つけた、明日も来てみようかな。
 ほろ酔い加減でいい気分になったところで勘定を頼んだ。馴染みになるには、『ちょっとずつ、毎日』くるのがいいのである。勘定は二千数百円だった。ビール、焼酎二杯、煮込みにつきだしならそんなもんだろうと思い、一万円札をカウンターの中の婆さんに手渡した。
「(お札が)大きくてすみませんね」と私が言うと万札を受け取った婆さんが「はいよ、五千円ね」と言った。
 その言葉にちょっとひっかかった。が、つい先刻まで打ち解けて話していたのだから、それも婆さんの冗談だろうとわたしはいい方向に解釈した。
 釣りは二千数百円だった。勘定が二千数百円、渡した札は一万円なのだから、当然七千幾らが返ってくる筈であった。それが二千数百円とは。五千円足りない。その時点でも私は、婆さんがおどけて、冗談を続けていると思っていた。
「あれ? 一万円渡したよね」
 わたしが釣りを確かめて言うと、いきなり婆さんは怒り出した。
「さっき五千円と言ったじゃないか!」
「え」
 目が点になるとはこのことか、とわたしはその時思った。婆さんは怒り続け、罵詈讒謗を浴びせてくる。半島の言葉も交えて。先刻冗談口調で話していたお婆さんとはまるで別人だ。財布の中身とATMの控えを見せて反論しようかとも思ったが、とてもこちらの話に聞く耳をもってくれそうな顔付きではない。もはや鬼女である。
 一気に酔いが覚めた。退散することにした。
――ま、どこかで飲み直すか。
 と思ったのである。婆さんの執拗な誹謗を背中に浴びながら店を出た。あれがいわゆる「火病」というものなのだな、と理解した。半島の人は怒り始めると手がつけられなくなることがある。その状態を火病というのだ。
 そのまま駅前の交番に駆け込んで、いまそこの店でこれこれこういう被害を受けました、と訴えようかとも思ったが、それに手間取る労力と時間を考え、止めにした。
――それより、飲み直した方が早いか。
 私は駅前でタクシーに乗り、「文化横丁へ」と行く先を告げた。


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