見出し画像

どうして幸せは他人が握っていくのか?

 …あーやめてやめて、変なセミナーと一緒にしないで。どうも夏田です。まぁ今回はちょっと世の中を皮肉ってやろうというだけの話です。ただ更に皮肉なのは私が1番他人に握らせていることかな…

 とまぁ御託を並べたわけですが。何をもって幸せと言えるでしょうか。美味いものを食べる、ゲームをする、マンガや本を読む、嫁とイチャつく(2次元か3次元か知りませんけど)などなど…これは多種多様なものだと思います。でも最近思うわけです。これ他人との関わりがなければ面白くないのでは…(となっている人が多いのでは)と。原因は3つだと考えています。

 一つはSNSの普及。facebook Twitterはいいんです、勝手につぶやいて終わりのパターンが大半なので。Instagramはどうでしょうか。私も今年から初めてせいぜい2,3個ストーリーをあげてみましたがやはり性に合わないのかあまりTwitterと変わらず…そもそもそんな楽しい出来事に溢れてるわけでもないですからね。あと多分昔から行事とかの類よりもしょーもないことして笑い合う日々に価値を重く置いているからかもしれませんね。
 Instagramでつながるというのは確かに面白いのかも知れません。でも写真をあげて繋がる状況がどこかで欲してしまう、ましてTikTokなどは自分自身や撮影している友人と楽しいんだーという形のないものを形にしたくなっていると言えるのではないでしょうか。しかしストーリーだとその形を1日で消すことになる…ここにどんな意味があるのかと考えてみると、ちゃんと私は貴方と何らかの関係ですよと明示したくてやっている、つまるところ他人に一時の権限を委譲しますよ、貴方のことを信用してますよという明示だと捉えることが出来るのではないでしょうか。

 次に孤独=可哀想という社会的圧力。これは2人1組になれない人がコミュ力ダメだから何とかしてあげてとかそういうことです。自ら選ぶ孤独を社会は封殺しようとします。可哀想だと気遣ったのに何の反応もないと村八分へと突き進む、これもまたこの社会の歪んだところで私が大嫌いなことです。
 私は群れることが好きです。というかそれがないと自分の存在意義を失う、他人の評価を9割自分の評価とするほどだからです。でも残り1割の矜持で孤独を選ぶこともあります。これは他人の評価=自分の9割評価を維持するためです。でもそれをすると人は怪訝な顔をします。何故なんでしょうね。
 結局俺も我慢してんだお前も我慢せぇということなんだと思います。この圧力は他人の手綱を握るため自分の手綱を握らせる実に愚かな行為です。だからこの圧力からはなるべく脱却しようと日々心がけているところです。

 最後に自分で自分自身の評価をつけると終わるパターン。特に私なんかそうですね。何の忖度もなくつけるとホントマイナスいくらだ?ってなるので。割とここまでどうにもならん、プラス要素が分からん奴なんてないだろうと。
 でもその中でこの社会は生存を強要するし、人体の仕組み上事実上生きることを強要するつくりになっちゃっているんですよ。だから評価を他人に任せるしかないんです。じゃなきゃ気が狂っちゃう。多分今いる友人らは何かに加点を下さってるんです。私には分からない何かがあるのでしょう、きっと。そうでもないとここまで私を生かしてはくれないんですよね、そういう意味で感謝はし続けていきたい所存です。

 色々述べましたが他人に自分の幸せを握らせることは決して悪いことではありません。それによって乗り越えられることもあるでしょう。ただその依存具合にはくれぐれも注意していかなければならない、私の場合改善を図らなければならないと考えているわけです。まぁそんな雑記でした。
良ければスキと拡散していただけたら感謝です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?