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【小説】レモンイエロー

※この物語はフィクションです。細かい設定は実際と異なるものがあります。




少し寒気がして目が覚めた。かけていたはずの毛布が丸ごと床に落ちている。時計をみると6時を回ったところだった。60をすぎた頃から、目覚ましなどは必要ないほど朝はよく冴えるようになった。

いつも通りクローゼットの一番前にあるワイシャツとズボンを選ぼうとして、ふとネクタイがないことに気がついた。いつもは妻がネクタイも選んでYシャツにかけておいてくれるが、忘れたのだろうか。

「おい」

私は階下の台所にいるだろう妻に声をかけた。

「はい」

軽い足音がした後、濡れた手をエプロンで拭きながら妻が寝室に来た。

「ネクタイ」

「あぁ!そうでした、昨日迷ってしまってそのまま選び忘れてしまったんですよ。」

「どれも同じだろう」

「あらあなた、今日だけは違いますよ。」

なんのことか分からないという顔の私に妻は少し困ったように笑いかけた。

「あなたが長年のお勤めを終えられる大事な日じゃありませんか、今日は。」

そう言われてカレンダーをみると、今日のところに妻の字で赤く『退職』と書いてあった。

「…あぁ。」

妻は私の襟の曲がったYシャツに手を伸ばした。

「あなたのこんな姿も今日が最後でしょうかねぇ。…あなたは大人しめな色がお似合いになりますから、いつもの紺のストライプにします?あぁでも特別な日ですから、少し赤の線が入ったあれがいいかしら?」

「…なんでもいい。」

言い表せない感情に襲われた動揺を隠しながら妻をおいて階下へ向かった。

リビングにはいつもと同じ朝食、そして朝刊が置かれていた。味噌汁の具は、私の一番好きな絹さやと油揚げだった。

結局選ばれたのは、ずっと4番のエースとして活躍した紺のストライプのネクタイだった。いつになく光沢の強い革靴を履くと、毎度のごとくいつの間にか鞄を持った妻が後ろに立っていた。

「…行ってくる。」

「あなた」

「なんだ」

一瞬考える様子を見せた妻だったが、すぐにいつも通り笑っていた。

「いってらっしゃい。道中お気をつけて。」

「…」

またもや言葉にならない何かを感じながら、私は定刻通りに家を出た。

******

会社を出た私はオフィスのビルを見上げた。何十年の中でも花束を持って会社を出るのは今日が最初で最後だろう。この場所に来るのも最後か。

新人の頃は睨むように見上げていた。だが契約がとれた日は自慢げにビルに入っていったものだ。管理職になってからは1日の終わりにビルを見上げ、まだ輝いている頑張りの光たちにエールを送りながら帰るような、そんな日々を送っていた。

電車に乗るのも街を歩くのも、花束のせいかおかげか人の目がやたら気になる。今日で定年ですと貼って歩いているようなものだ。しかし隠す術もなく、だらんとぶら下げて歩いていた。

「…ただいま」

いつもの軽い足取りがいつもより軽く感じた。

「おかえりなさい!…お勤めお疲れ様でした。」

妻は深々と頭を下げた。なんだか気恥ずかしくなって、私は今までぶら下げていた花束を妻に押し付けた。

「まぁ花束!色とりどりで素敵ですねぇ、しおれないうちに花瓶にいれましょうか。」

リビングに向かいかけた妻が立ち止まり、振り返って一枚の紙を私に渡してきた。

「あなたはずいぶん慕われていたのですね。」

その紙は部下たちからの寄せ書きで、花束に負けず色とりどりに飾られていた。どうやら花束に刺さっていたようだ。

風呂から上がって一杯やろうとリビングに入った私は、ぎょっとしてしまった。山盛りの唐揚げが鎮座していたのだ。

「…なんだこれは」

妻は台所でまだ唐揚げを揚げていた。

冷蔵庫を空けると、ビールがキンキンに冷えていた。そのビールをとろうとした時、ようやく妻が私に気がついた。

「あ!ビールのグラスも冷やしてあるんですよ、ほらそこの扉のところに。」

いつから冷やしていたのだろうか。

「うぉ」

冷たすぎてつい声が出てしまったが、風呂上がりのビールはいくつになっても格別だ。

「湯加減どうでした?」

いつの間にか唐揚げを揚げ終えて夜ご飯の支度を済ませていた妻も着席した。

「あぁ」

妻はにっこり笑った。

「さ!お疲れ様パーテーしましょっ!」

「…こんなにどうするんだ。」

「男子学生でもないのに~とか思ってるでしょう。まあ任せてくださいな。」

妻は思考が鋭い。私の考えていることは大体分かるのだろうな。感心してる間に妻は冷蔵庫からいくつかのタレを持ってきた。

「南蛮ダレ、大根おろし生姜ダレ、明太柚子ダレ、わさび醤油ダレです!これなら私たち老人でもさっぱりいただけるでしょう?それからサラダもお漬け物もありますよ。お野菜もしっかりとって、今日はたらふく食べますよ!」

妻は料理が得意だ。ただそれは最初からではなかった。結婚したての頃は焦がしたり茹ですぎたり、いろいろとやらかしていた。作るのが妻の役目なら、美味しく食べるのが私の役目だと思いいつも静かに完食していたが、そのうち妻はめきめき上達し、なんでも作れるようになった。

「…いただきます。」

「いただきます!…あ、あなた」

顔を上げると妻は真剣な顔をしていた。

「約40年、あなたが毎日頑張ってくださったからこんなに美味しいご飯が毎日食べられて、私は幸せな暮らしをさせてもらえました。本当にお疲れ様でございました。ありがとうございます。」

帰宅時の気恥ずかしさがこみ上げる。私も何か言わなければ。何か…

「…うん。」

なんとも情けない。妻にお礼の一言も言えぬとは。逃げるように私は順番にタレをつけて唐揚げを食べた。美味い、そして上手い。これなら油で胸焼けすることもなく、肉で胃もたれすることもなく食べられそうだ。唐揚げ、唐揚げ、ビール、サラダ、唐揚げ、ビール、漬け物…

気がつけば私は妻に何もいわずに夢中で食べていた。ビールを1缶飲み干した時、自分は全く料理に手をつけずに私をにこにこみている妻と目があった。

「…食べないのか」

「いいえ食べますよ。でも…」

「なんだ」

ふふっと妻が笑った。

「今日は気合いをいれて作ったので感想聞こうとおもったんだけれど、あなたがあんまり美味しそうに食べるから感想なんてどうでもよくなっちゃったわ。」

「…美味いぞ。冷める前に食べなさい。」

「ふふっ。はーい」

妻と私はそれぞれいつもの1.5倍は食べたのだが、唐揚げは1/3ほど残ってしまった。妻は漬けにするかチキン南蛮風にするかでそれはそれで楽しそうにしていた。

******

次の日から私のセカンドライフはぬるりと始まった。

早起きは変わらなかったが、ワイシャツに袖を通さず外にも出ない平日はなんだか違和感しかなく自分の家なのに馴染めなかった。

私がぼんやり新聞を読んだりテレビをみている間、妻は一時として同じ場所にいなかった。ベランダで洗濯物を干したかと思えば台所で皿洗い、2人分の昼食を作った後は買い物に出かけ、夕食の支度をしながら風呂を沸かす。妻も日々家事を頑張ってくれているとどこかしらで思ってはいたが、こんなに過酷だったのか。この作業を妻は何十年も…?

だが私の心配をよそに妻は時々こう呟くのだ。

「あなたのお弁当を作らなくてよくなったので、楽になったんですよ。」

「Yシャツをアイロンにかけなくなって作業がひとつ減りましたよ。」

私は違和感のひとつに、なにもしないで家にいることも一因ではないかと思った。それならば妻の手伝いをすればいいではないか。簡単なことだ、私だって家事はできるはずだ。

…と軽い気持ちで始めた手伝いとやらは、ただ妻の仕事を増やしたにすぎなかった。

妻のよく使っていたコップを皿洗いで割り。

「あらぁこのコップ飽きてきたんです、ちょうどいいから別の買いましょうかね」

洗濯物には間違えて倍の洗剤を入れ。

「まぁいいにおい!この洗剤に変えてよかった」

昼食を作ろうとしてチャーハンを焦がし。

「少し取り除けば食べられますよ。塩加減がちょうどよくて、美味しい!」

手伝い始めて2日後、3日坊主とは割と続いた方なのだなと実感しながら、私はがっくりとソファにうなだれていた。

そんな私のそばに気がつけば妻が立っていた。見上げると満面の笑みで私にメモを渡してきた。

「お買い物に行ってきてほしいんですけれど、頼めますか?」

「……いや…」

躊躇していると妻は屈んで私に目線を合わせた。

「あなたが毎朝毎晩歩いた駅までの通りの商店街で全部揃いますから。ね?」

まるで初めてのおつかいじゃないか、そうむっとして返そうとして思い止まった。確かに初めてのおつかいに間違いないのだ。それにこれは妻からの最大の気遣いだろう。

「…分かった。」

「ふふ、いってらっしゃい!」

******

商店街にはいった私は息を飲んだ。朝早く、もしくは夜遅くにしかここを通らなかった私は知らなかったのだ。こんなに活気に溢れた商店街を。

呼び込みの声、買い物客との談笑、穏やかな午後がそこにはあった。ハッとして私は買い物メモを見る。野菜、魚、肉…どの店から行こうか、そもそもどの店がどこにあるんだろうか…

「あれ?その買い物バッグ…」

横から大きな声がしてみると、豆腐屋の親父が私の買い物バッグを指差していた。

「あんたもしかして、晴美さんとこの旦那さんかい?」

「はい…あの」

なぜそれを?と聞く前に親父は私の目の前まで急いで来た。

「晴美さんどうしたんだ?どっか悪いのか」

親父の目は真剣だった。

「いえ、おつかいを…」

私の言葉を聞いて一瞬キョトンとした親父だったが、すぐに大笑いしはじめた。

「なーんだ!おつかいか!どっか悪くしたんだと思って心配しちまったよ。で?旦那さんお仕事は今日お休みかい?」

「いえ…」

こんなに間合いを詰めてくる人は会社にはいなかった。初めての距離感で半分怯えていると、

「こらお父さん!困ってるでしょう、はじめましてなんだから考えてよね。すみません父が。」

「…いえ……」

セーラー服の女の子が豆腐屋の裏から出てきた。素朴だけど可愛らしい娘さんだ。

「そうだ倫子!お前旦那さんのおつかい手伝ってやんな!店の場所知らねぇだろうからさ、お前ついてってやんな。」

「わかったー。…すみません、ご一緒していいですか?」

「あ、…あぁ」

あからさまにどぎまぎしてしまった。こんな若い人と話すのはいつぶりだろうか。子供のいない私には余計に女の子というのは縁がない。

そんな様子の私を見て彼女は優しくにっこり笑った。

「メモ、拝見しますね。」

ざーっとメモをみている彼女の姿はすでに頼もしかった。彼女はぶつぶつなにか言い始めた。

「がんもはあとでうちで買うとして、お野菜から先に買った方がいいな…ちょっとうろうろしちゃうかもだけど、源さんとこでお野菜買って…お肉は挽き肉か、じゃ小浜精肉さんでミンチしてもらってる間にかっちゃんおじさんのお魚ってとこかな…」

彼女はパンッと勢いよく手を合わせた。

「いきましょうか!」

「…お願いします。」

「お父さん、がんも200包んどいて!じゃ!」

「あいよー!」

こうして私は彼女にはじめてのおつかいを手伝ってもらうことになった。

******

「ともちゃんいらっしゃい!あれおつかい?」

「倫子ちゃん!これ安いよ、どう?」

「ともちゃーん!」

商店街の人は本当に仲がいいんだなと、私は後ろをついていきながら感じていた。

私は人が苦手だ。会話が苦手だ。頭のなかではいろいろと考えて独り言をつぶやくが、実際はほとんど口に出すことがない。そのせいで寡黙で何考えてるか分からないと会社でもよく言われた。ただ、妻だけは私は口に出さないだけで寡黙ではないと言っていたが。

買い物をしている最中も私は頭のなかでどう若者と会話したらいいのかばかり考えていた。そんな私の様子を彼女は特に気にしてないようで、てきぱきと買い物をしていた。

「がんもの煮物とピーマンの肉詰め、デザートにオレンジってとこですかね?」

「…え?」

急な問いかけに驚いている私をみて彼女はふふっと笑った。

「今晩のおかずです。そんな気がしたんですけど、どう思います?このおつかいメモ。」

渡されたメモには、ひき肉、ピーマン、玉ねぎ、がんもなどが書いてあった。なるほど。

「料理はわからないもので…」

買い物を全て終えた頃、何かを思い付いた彼女は私に優しくこう言ってきた。

「少し寄り道できますか?」

「…え?」

たどり着いたのは、さびれた空気感の花屋だった。

「明美いるー?」

そう呼びながら入っていく彼女に恐る恐るついていった私は、中に入り圧倒された。

天井には溢れんばかりのドライフラワー、床には一面の生花が置かれていた。まるで花だけに用意された空間で、ここで息をするのも花に申し訳なくなる程だった。

すると奥から、花のように美人な女の子が出てきた。

「なんだ倫子か。そちらは?」

「あーえっと晴美さんの…あ、お名前聞いてなかったですね。」

「あ、えぇ…よ、陽一郎です。」

「晴美さんの旦那さんでね、今日晴美さんの代わりにお買い物に来て、私が手伝ってるの」

「そうなんだ。で、何にする?」

ぽんぽんと話が進んでいく。若者のスピードだ。

「いや、花は…」

頼まれていない、そう言おうとした時だった。

「…陽一郎さん、よかったらですけど、晴美さんにお花を送りませんか?」

「え?」

突然の提案に私は意味が分からなかった。

「たぶんですけど、陽一郎さん、晴美さんに言えてないことあるんじゃないかなぁって。」

「え…」

どきりとした。定年退職のあの日からずっと、私はもやもやを抱えていた。妻に何かを伝えたい、いや伝えなければならない、そう思うたびに思いが具体的にならずにずっともやがかかっていたのだ。そのもやを、今日出会ったばかりの彼女ははっきりと言い当てた。

彼女、倫子さんは会って何度目かになる笑顔を私に向けた。

「気に障ったらごめんなさい。何も聞いてはいないけど、そんな気がして連れてきちゃいました。」

そういって近くの花をぽんと触った。

花屋の彼女も何かを察したようだった。

「倫子って妙に勘が鋭いというか察しがよすぎるというか。先走って推理しすぎるところあるけど大抵当たってるから怖いよね。」

「なんとなく空気でね、そんな気がするだけ。」

花屋の彼女は私の方をみて笑いかけた。

「お花って便利ですよ。想いを形にしてくれる。言葉にならない言葉をのせてくれるんです。よかったら、少し買っていきません?ちょっとおまけしますし!」

「えっと…」

正直この誘いは私にはうってつけだった。彼女たちからの提案がなかったら、私は妻への気持ちを言葉にすることなく伝えることもなく終わっていただろう。だが部下からもらった花の名前も価値も分からなかった私が花など選べるだろうか。

私はぼんやりと花屋を見回した。すると、天井の脇の方にぶら下がっている小さい花を見つけた。薄い黄色の花は控えめで、でも私にとっては眩しく、まるで温かな日差しのように降り注ぐ姿がふと妻と重なった。私の視線を追って彼女らもその花をみた。

「あぁ、スターチス!素敵ですよね。それはドライフラワーになってるので、ずっととっておけますよ。」

「…じゃあ、お願いします。」

花屋の彼女はにっこり笑った。

「かしこまりました。今包みますね。」

それから彼女たちはなにやら2人で相談しながら花を綺麗に包みはじめた。気づいたら私はスターチスの花束を抱えていた。見るたびに妻を思い出させる、不思議な花だった。

「これでお買い物は全部ですね。」

「何から何までありがとうございました」

「いえいえ!またいらしてください。今度は是非晴美さんと2人で!」

倫子さんは最後まで手を振ってくれた。花束をもった帰り道は今日が2回目だが、今日は心なしか自信をもって歩くことができた。

******

「…ただいま」

玄関に入ったとたんに私は花束を持っていることへの緊張感をひしひしと感じ、急に自信がなくなった。

「はーい!」

いつも通りの妻の軽い足音がする。私はとっさに花束を後ろに隠した。

「おかえりなさ…あら?どうかなさいました?」

大きな花束が後ろにすっぽり隠れるわけがなかった。私は諦めて妻に黙って渡した。

「まぁまぁ!素敵!可愛いスターチス!こんなにたくさんどうしたんです?あらぁ綺麗」

私は途中から恥ずかしくて妻の姿をみられなかった。だが、言わなくては。そのための花束だ。

「その…礼だ。」

それ以上は言えなかった。本当はもっと伝えたいことがあるのだ。仕事ばかりで忙しかった私をずっと支えてくれて、構ってやれずとも何も言わずにいてくれて、毎日笑顔で生活を守ってくれて、日々私のことを労ってくれて、太陽のような、暖かな日差しのような、そんな妻がいなかったら私は――。

「あなた」

うつむいていた私の視界には、そっと私の手を握る妻の手があった。ぱっと顔を上げると、顔を紅潮させた妻がいた。

「私はあなたの妻になれて、世界一の幸せ者です。誰がなんと言おうと。」

涙ながらに言う妻は、本当に可愛らしく美しく、久々に見とれてしまった。

「…顔が真っ赤だぞ」

「あなたこそ。…あら?花束に何か入ってる」

妻が抱き抱える花束にはカードが入っていた。そのカードには、可愛らしい文字でこうあった。

『スターチスの花言葉は、永遠に変わらない愛です。~末永くお幸せに!~』

それは商店街の彼女たちの粋な計らいだった。カードをみて照れ臭そうに私も妻も顔を見合わせて笑った。

「さ!早く靴脱いでちょうだいな。今夜は一緒に夜ごはん作りますよ!」

「そう急かすな今行くから」

少し空いたリビングのカーテンから、暮れ始めの柔らかな光が差し込んでいた。その光はリビングに飾られたレモンイエローのスターチスと2人だけの空間を、より一層あたたかなものにしていた。