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【小説】コバルトブルー



※この物語はフィクションです。細かい設定は実際と異なるものがあります。




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その昔、源氏物語の主人公で数多くの女性の心を射止めた光源氏だが、彼をもってしてもなびかなかった女性がいた。名を空蝉という。心こそ揺らぎながらも最後まで光源氏の誘惑にのらなかった空蝉は、遥かに年上の相手に嫁ぎ仕え、心を許す人もなく尼となり生涯を終える---。


『空蝉の 身をかへてける 木のもとに

なほ人がらの なつかしきかな』

-光源氏-

(あなたは蝉が殻を脱ぐように、衣を脱ぎ捨てて逃げ去っていったが、その木の下でやはりあなたの人柄が懐かしく思われますよ)

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遠慮がちに網戸を開ける音がして、俺は目を覚ました。ぼーっとする頭を抱えながら起き上がると、頭の向きがごちゃごちゃのまま7~8人が雑魚寝していた。あちこちに転がるビール缶やスミノフの瓶、小さなテーブルの上には微妙に食べ残されたスーパーのお総菜。時計をみると、夜中の4時だった。

ちょっとハメ外して飲みすぎたかなぁ、と少し痛む頭をベランダに向けると、ちょうどカーテンを強く風が揺らした頃だった。

まだ日が昇るよりずっと前だというのに、外はやけに明るい。光に誘われるようにベランダを覗くと、コバルトブルーのワンピースがふわふわ動いていた。袖からみえる白い肌が夜光に照らされて消えてしまいそうで、ふと手を伸ばした。そうしたら少し口角の上がった横顔だけが紅潮しているのがみえて、あぁまだ生きてくれている、そんな風に思った。

「…あお…。中田、起きてたの」

「おーはるよし。おはよ」

涼しげに笑う彼女の手には日本酒の一升瓶があった。

「お前まだ飲むのかよ」

「えー?迎え酒だよ。飲む?」

「それで一升瓶抱えるやつがあるかよ、いらねぇし」

つまんないの、とぶつぶつ言いながら日本酒をらっぱ飲みする葵衣。こういう男っぽいところ、学生の時から変わんないなぁ。

「はるよしまだ日本酒苦手なんだ?」

「いや、飲めるけどさ。仕事で飲む機会が多いからオフの日は飲みたくない」

「相変わらずなよなよしてんなぁ!」

ぽんっと背中を叩く。その音が思ったより静かだったのは、寝てる連中に遠慮していたのだろうか。それとも自然消滅した元カレに対しての遠慮なのか。

「しっかしこの集まりも変わんないねぇ。ほりすけが召集しないと誰一人グループ動かさないから何年ぶり?って感じ」

「堀が来月から海外赴任でベトナム行ったら帰ってくるまで集まらないかもな」

「あはは!まあゆうて女子とは連絡とれてるからなぁ」

「にしてもゼミの全メンバーがこうして今でもつるんでるって結構あついよな」

「国文学科一騒がしい高野ゼミね」

「騒がしかったのお前だけだろ」

「いやいや!ゼミ長のはるよしの責任だから」

会った時から気になっていた薬指の小さなダイヤが目の端でキラキラうるさくて、俺は視線をわざとらしく外した。

「…お前結婚したんだな」

葵衣は顔色ひとつ変えなかった。

「はは、やっと誰か聞いてくれたと思ったらなんだはるよしだったかぁ」

「みんな気まずくて聞けるわけないだろ、前集まった時には俺ら付き合ってたんだぞ。てか俺には聞く権利あると思うけど?」

ふーん、と口を尖らせた葵衣は何も言わず指でピースした。はぐらかされたのか、2年前なのか、2ヶ月前なのか。相変わらず読めないやつ。

「…ねぇはるよし」

「ん?」

「あんたのなかでさ、私って何番目?」

「…は?」

「あ、ごーめん、はるよしくんの経験人数は私だけなんでしたっけ?いやぁ失敬失敬」

「…彼女できたし」

「…ふふっ。どうりで今日の飲み会ずっと距離おかれてたんだ。優花里でしょ、相手」

やけに鋭いところもあの頃と変わってないな。

「…気づいてたんなら何番目とか聞くなよ。浮気してるみたいじゃん」

「え、してるよね?浮気。」

酒臭い顔を上目遣いに覗かせた葵衣は、目の奥でまだいたずらが隠れていた。

「私のこと意識してる時点でそれもう浮気じゃん?」

「…別に意識してない」

「じゃあ質問でーす。なんで葵衣って呼ばないんですか?今日から急に中田呼び。てかさ私もう中田じゃないし、向田だし」

葵衣はにやにやしている。本当にこいつは絶妙に人をイライラさせる奴だ。それなのになぜか許してしまうのは、なぜなんだろうか。

「…っ。そりゃ、配慮ってやつじゃん。お互いもう相手見つけてんだから、とっくに別れてるのにいつまでもそういう呼び方は…」

「ふーん、つまんないのー」

さっきからなんなんだ。勝手なことばっかり言って。そうだよ、お前はずっと前から勝手だったんだ。

「…じゃあ俺も質問していい?

…お前なんで俺の前から消えたんだよ。」

葵衣は顔色ひとつ変えずに夜空をみていたが、下を向いて左手の薬指をいじり始めた。

「…俺、真剣だったんだけど。お前が急に連絡とれなくなってどれだけ探したか。自然消滅とか俺1番嫌いなの知ってたよな?それが3年たって急に現れたと思ったら結婚してるし…」

「…そこでそばにいてくれたのが優花里ってわけだ?」

「おい茶化すな。真面目に答えろよ。」

葵衣は日本酒の瓶を掲げて中身を確認してから、残りを一気に飲み干した。そして大きく深呼吸して言った。

「コンビニいかない?甘いもの食べたい」


******


「うわーこのコンビニ懐かしいー!ねぇみてはるよし、まだプレミアムいちごサンドあるよラスイチ!」

「おまえまだ食うのかよ」

「別腹なんですー。はいこれ」

「…財布は?」

「持ってきてないの知ってるくせに」

「…」

上機嫌のままなんの曲か分からないフレーズを口ずさみながら葵衣は先に外にでていった。


コンビニの前でいちごサンドを食べていると、葵衣がぼそっと言った。

「喧嘩したあとっていつもコンビニでいちごサンドだったよね」

「売り切れてたら毎回お前怒って結局喧嘩長引くんだよ」

「ははっそうそう。喧嘩の終わりはいちごサンドにかかってる」

「なぁ、あれさ、あの…」

「あれでしょ」

「「期間限定ブルーベリーサンド」」

「あれまじでさ…」

俺と葵衣は会わなかった3年間分の触れ合いを、会ってない間の出来事ではなくもっと前の思い出で埋め合った。こうしてコンビニで駄弁っていると、本当にまだ付き合っているのかもしれない、そう錯覚しかけたが、俺の視界にはちらちらと薬指のダイヤが覗き込んでいた。

葵衣がどんな人と、なぜ結婚したのか。どうして俺の前から消えたのか。今何をしているのか。俺は聞かなくてはならない立場なはずだったのだが、葵衣がどうしても言いたくないんだなというのが伝わってきて、3年ぶりに開いた気持ちにそっと蓋をした。


「優花里のこと、大事にしてやりなよ。あの子は名前のまんま、花散里の君だから」

「なんだよそれ」

「源氏物語。花散里の君はすごく優しくて、どんな時も源氏の味方でいてくれる人。そっくりじゃんあの子に。まぁはるよしが光源氏とかあり得なさすぎて笑えるけどね」

「うるせぇ」

そういえばこいつ、卒論で源氏物語やったんだったなぁ。ゼミにいつも遅刻してくるくせに卒論の出来は誰よりもよくて、教授お気に入りだったんだっけ。

「じゃあお前は?」

「なにが」

「お前はなんなんだよ。やっぱり光源氏の最初の妻の葵か?名前の通り」

「私はー…空蝉かな」

「そんな登場人物いたか?」

葵衣は静かに笑った。

「いたよ。誰よりも強くて、誰よりも悲しい人。」

だんだんと明るくなってきた空が、葵衣の横顔をうっすらと照らしていた。涙を流すでもなく顔を歪めるでもなくむしろ清々しく空に正面から顔を向けていたその姿は、今までみたどんな葵衣の顔よりも暗く、言い表せない悲しみと後悔が滲み出ていた。

「葵衣、お前さ…」

「はい思い出のコンビニおわり!帰ろ!」


葵衣はサンダルをぺたぺた言わせながら小走りでコンビニから離れていった。ちょうどビルの隙間からでてきた太陽が、葵衣のコバルトブルーの服を勢いよく照らし出す。蝶のように不規則な流れでふらふらと道を歩く葵衣の姿をみて、もう金輪際葵衣とは会えないのだろう、少なくとも葵衣は会うつもりがないのだろうと悟った。


******


「じゃあ今度は堀が日本帰ってきたら会おう」

「ベトナム頑張れよ!!」

「誰か結婚したら式呼べよなー」

そんな会話をしながら去っていく仲間をアパートの前で見送っていた時、ふと葵衣が声を上げた。

「誰も言ってくれないんで言いまーす!私大富豪と結婚しちゃいました-!!」

全員が少し気まずそうに、でも祝いたい気持ちもあり、という複雑な顔で俺の事をみてきた。俺は小さいため息をついた。

「飲み会の時いってくれたらケーキくらい買ったのに」

平和そうに言った俺の一言に続いて、それぞれがおめでとうだの早く言えだの、ずっと言いたかった事をようやく伝えていた。


「じゃあね、春好くん」

「…元気でな、葵衣さん」

うわ、その呼びかたきも!って顔をしながら葵衣はひと足先に進んでいた連中に小走りで追い付いていき、やがて俺の前からみえなくなった。


「お別れ、できた?」

一人残った優花里が優しく口を開いた。

「え?」

「葵衣ちゃんから言わないでねって言われてたんだけど、もういいかなと思って」

「…何が?」

「葵衣ちゃんね、買われたって言ってた。」

「は?」

「ご両親の体調悪くなって会社上手くいかなかったみたいでね。大きいところに助けて貰ったらしいんだけど、その条件が葵衣ちゃんだったって。お相手、26歳上の御曹司だって」

俺は暗く寂しい葵衣の横顔と、真っ青なコバルトブルーの舞を思い出していた。

「…なぁ、空蝉って知ってる?」

「え?うーん、セミの脱け殻ってこと?」


家に入り転がった瓶を片付けていると、葵衣がらっぱ飲みしていた日本酒に何か書いてあった。黒い瓶に黒いマッキーで書いてあるから読みづらい。でもあの強気な性格に反して柔らかな線の細い字は間違いなく葵衣のだ。どうやら短歌のようだ。

「いっちょまえに風流なことしやがって」

優花里に見えないように俺はその瓶をそっと部屋の隅に置いた。


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俺がその短歌の意味を知るのは、その後源氏物語の現代語訳本を読んだときだった。

俺はあいつのプライドを守れたのだろうか、と今でもふとあの日を思い出す。脱け殻どころかとんでもないものを残しやがって、と次会ったら一発蹴りでもいれてやろうと、一生来ないその日を思うのだった。


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『空蝉の 羽に置く露の 木隠れて

忍び忍びに 濡るる袖かな』

-空蝉-

(空蝉の羽に置く露が木に隠れて見えないように、わたしもひそかに、涙で袖を濡らしております)

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