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最期の言葉 【ショート・ショート】

仕事を終え、携帯を見ると母からいくつもの着信が残っていた。

嫌な予感がしてかけ直すと、祖母の容態が悪化し、病院に緊急搬送されたと言う。

すぐに飛行機のチケットを手配し、翌日朝イチの便で地元に飛んだ。

病院に着き、面会した祖母は意識が戻っておらず、とても苦しそうに呼吸をしている。いくつもの管が命をこの世に引き止めているようだった。

祖母と最後に会ったのは4年前の弟の結婚式会場。祖母は僕の隣に座っていた。

昔はあんなにも厳しくお作法のことで僕を叱っていたのに。。。いつまでもフォークとスプーンをカチャカチャ鳴らし、遊んでいる祖母に「恥ずかしいから、ちゃんとしてよ。」と僕は何度も言ってしまった。認知症が進行していることに気づかなかった。

医師からは、「もしかしたら明日亡くなるかもしれないし、1ヶ月後には回復しているかもしれない。ただ、祖母は懸命に頑張っている。」
そう告げられた。

僕の両親は共働きだったため、保育園の迎えも病院の送り迎えも祖母がしてくれた。夏休みに描いた絵が佳作に選ばれた時は、誰よりも喜んでくれた。小学校6年生の時、両親に内緒ではじめた新聞配達のアルバイトも褒めてくれ、仕事で使えるからとオレンジ色のかっこいいリュックをプレゼントしてくれた。

2週間後、改めて病院を訪れると祖母はまだ苦しそうにしている。
まだ意識は戻っていない。

「この前は驚いて、、、何もできなくて、ごめん。結婚式でのこともごめん。。。今日は話がしたい。ばあちゃんと話したいことがたくさんある。」

そう言って祖母の手を握ると、ちゃんと生きていて、昔と変わらない温もりがあった。最後に手を繋いだのはいつだろう。
この温かい感触だけは絶対に忘れないよう何時間もずっと手を握った。

それから毎週末、地元に帰っては病院を訪れ、祖母の手を握り、たくさんの話をした。大学時代のこと、社会人になってからのこと、最近生まれた子供が可愛いこと、会社で大失敗したこと。

祖父は医師から人工呼吸器をつけるかどうかの提案を受け、悩んだ末、これ以上の延命措置は行わないことを選んだ。その3日後、祖母は他界した。

お葬式で見た祖母は穏やかに眠っているようだった。倒れてから今日までに、たくさんの人が祖母のところに訪れた。その時間は、祖母からみんなへの、最後のギフトのような気がした。

1分後に世界が終わるとしても、もう一生、大好きな人と会えないとしても。
僕のなかで最期の言葉は決まっている。

「ありがとう。また明日。」

これからも心の中で祖母とたくさんの話をしようと思った。

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