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人生の棚卸し

私は今26歳

ちょうどいい時期なので人生の棚卸しをする

ストゼロの勢いに任せる。

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1.赤ちゃん〜保育園


2歳くらいかな。知らんけど。

1歳くらいまでは記憶がない。

保育園と幼稚園の記憶はある。

保育園は仲のいい三人組でいつも一緒にいた。

保育園までの道のりを父親に送ってもらって

貯水槽をソフトクリームに見立ててた。


こんな感じ。

「これはバニラアイスだ!」

「あれは紅芋アイスだ!」

て言ってたのをおぼえてる

夕暮れ時は紅芋アイスになる。

保育園の時は水泳に通っていた。

毎日お昼時間にみんなが寝てる間

私だけ水泳教室に行くために抜け出してた。

なんらかの行事がある時にケーキを食べるのだが

水泳に行く私だけ食べれなかったことが多い。

総じて面白かった。

女の先生が担当だったのだが

私の両親との関係は良好で

「将吾、困った時はな、敦子!尻拭け!て言うんだぞw」

て言われてた。

田舎の保育園ということもあってのんびり暮らしてた

ただ一つだけ大きな事件があった

木に登った子が転落して腕を持って行かれたらしい。

その後どうなったのかわからない。

当時の私でも深刻さが分かるほど大事件だった。

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2.幼稚園


家から近い幼稚園だった。

そこにはこれから約10年間

つまり小学校から中学、高校まで

ずーと一緒に過ごす仲間がたくさんいた。

幼稚園はあまり記憶がない。

保育園の時ほどのインパクトがない。

ただ、幼馴染はたくさんいたし、

運動会もあった。

普通の生活だった。

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3.小学生


小4くらい


とても楽しい6年間だった!

沖縄の小学校なので

自衛隊の子供がたくさんきた。

彼らと過ごす時間も特別だった。

小学校の時はようキャの極みだった

毎日放課後誰かの家に遊びに行ってた。

女子の家も行ってた。

この頃はお笑い担当だったので

笑わせることが好きだった

給食時間、部活の休憩時間

時間さえあれば笑わせていた。

この調子でいってたら芸人になってただろう。

私はバスケ部に入っていたのだが

後輩がおにぎりを頬張った時に私は一発芸をかました。

すると後輩は「ブフッ」て感じでむせて

それでも笑いを堪え切れなかった

挙げ句の果てには米粒が鼻からポコン、ポコンと1粒ずつで来る始末。

陽キャの極みだった。

ただ身長は低かった。

小1〜小6までずっと

1番前の人だった

学年でも1.2を争うくらいずーと低かった。

でも楽しかった!

デートのようなこともした。

公園で散歩しながら話して

帰り際に彼女からストラップをもらった。

当時の淡い思い出が久々に蘇る。

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4.中学生


中3


中学生が人生でダントツできつかった

中学というのは義務教育の最後で

勉強できるやつとグレるやつに分かれる。

私はそれなりに勉強はできた。

ただ、一つだけ大きな問題があった。

身長が低いことだ。

入学時140.0

中3時150.1

これがどれだけ低いか分かるかな。

ずーと女性を合わせた学年で1.2を争うくらい低かった

小学校までは良かったが

中学となるとみんな思春期にはいる。

身長のことも気にし始める。

そんな中、私だけ小さいと嘲笑の的になる

課外授業では他校と顔合わせをした時

笑われたこともあった

バスケ部というのもあって

周りはみんな大きい。

劣等感しかなかった。

身長が原因で毎日がストレスだった。

親から聞いた話だが

寝ていた時、私が突然起きて

ベランダの窓を開けて下に飛び降りようとしたらしい。

もちろん私は覚えていない。

私の住んでる団地は9階。

落ちたら確実に死ぬ。

そう

私はそれほど追い込まれていたんだ。

実際

毎日悪夢を見ていた。

内容は

「黒い物体がナイフを持っていて私を追いかける」

私がどれだけ逃げてもその人?は瞬間移動して私を刺そうとする

最後に刺された時にハッと目が覚めて

汗だくになりながら起きる。

「夢か…現実よりはマシだな。」

こんなことを毎日思いながら辛い日々を送っていた。

いじめはなかったがバスケの練習はきつかった

毎日走り込みで体力作り。

1日10キロ以上は走っていた。

部活を引退した時に初めて開放感を覚えた。

「あー、やっと解放されたー!」

となった。

中3の夏、引退。

それから成長期に入り

150.1が高校入学時には160.8になっていた。

平均より2年遅いが成長期がきた。

その頃からヒゲがうっすら生え始めた。

スマホを持ったのも初めて。

スマホでエロ動画を検索するとすぐ見れることに驚いた。

高校入学前の3月

お風呂でエロ画像を見てると急に気持ちよくなって

何かが出る感覚があった。

おしっこかなー?と思ったら

白いネバネバしたものがでた。

驚いたが後から調べると精子らしい。

そう

私は高校の時初めて精通した。

それからというもの

想像でオナニーしたり、スマホを使ったりと

快楽にどっぷり浸かった。

5.高校生


19歳


高校ではテニス部に入った

テニスが楽しすぎて毎日やってた。

平日はもちろん、休日も友達と朝から晩まで9じかん打ちっぱなし。

そのせいで日焼けしすぎて真っ黒になった。

本当に黒人みたいな黒さだった。

引退するまではずーとテニスをしてた。

途中でキャプテンになったが

キャプテンらしいことはしてない。

これまで通りのことをしてた。

個人戦では県大会4回戦くらいまではいけた。

とにかくテニスに熱中してたらあっという間に引退してた

高3の6月、引退と同時に暇になる。

私は地元の国立大学を志した。

夏休みに入り

私は毎日図書館に通い続けた。

開館から閉館までずーと勉強してた。

あの時期が今の僕を作ってる。

図書館の雰囲気

周りの人、周りの環境音

なにもかもが好きだった。

あの懐かしい感じが味わいたくて今でも思い出す。

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6.大学生



表彰式
20歳ごろの免許証
21ごろのマイナンバー


自分の第一志望ではない大学に入り

プライドの高い私は

「こいつらとは違う」

という想いがどこかにあった。

鶏口牛後

という言葉があるように

与えられた環境でトップになってやろうじゃないか!

と思い立ち勉強をはじめた。

学科内150人の中で1位を取れば学費全額免除

これを狙って

ぼっちで情報もなく助け合いもできない中奮闘した。

結果は4位だった。

15万円くらいもらえたが悔しかった。

「俺はここでも1位になれないのか…」

と強く思ったのを覚えてる。

大学生活はとにかく陰極だった。

毎日授業をでて隙間時間は大学図書館にいて

授業が終われば地元図書館に行って本を読んだり勉強

これをずーとやってた

大学図書館と地元の図書館にいた時間は誰よりも多い。

1日5時間としたらトータルで7300時間になる。

それくらいいた感覚。

大学4年になり公務員試験を受けたが不合格。

ショックを埋めるために当時やってた倉庫のバイトに明け暮れる。

15時出勤3時退勤。

12時間労働休憩なしをやっていた

派遣だから休憩なしの分給料をもらえた。

時給が800円から900円になり

手取りが23万ほどだった。

半年ほど続けたある日

社員との関係が悪化して辞めることにした。

と同時に大学の問題も出てきた

4年になり1度も大学に行ってない。

単位は卒論だけだったが

毎週出席義務だった

私は教授にメッセージを送り

なんとか特別措置をしてもらえた。

大学卒業時のメンタルは人生の中でも最低でした。

今までやっていたバイトの社員にパワハラされて辞めたり

大学はなんとか卒業できたものの、就職先が見つからない

お先真っ暗だと思っていた

頭痛薬も毎日10錠くらい飲んでたので

親から心配されていた。

1ヶ月のニート期間に自分と向き合って

今までの出来事を見つめ直した。

メンタルを回復しつつ

塾講師と家庭教師を兼業した。

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7.社会人(〜24歳)


沖縄の観光地

なんやかんやでメンタルを立て直した24

私の親友は仕事の転勤で福岡に行くことになった

いよいよ沖縄には私の友達がいなくなる。

寂しさと孤独はあった。

親友が福岡に住み始めて2ヶ月たったある日。

彼からLINEがきた。

「やっぱ一人暮らしは寂しいな。福岡来るなら泊まってもいいよ。」

そんなチャンスがあっても動こうとはしなかった。

あの時の私は沖縄から出ることを想像できなかった。

コンフォートゾーンから出ることは

これまでの自分を破壊することを意味する

変化とは変わって化けること

今までの自分とは違うということ。

当時の私はその一歩が踏み出せなかった。

そんな時にジモティーである出会いがあった。

大阪出身で旅をしている23歳の男。

彼と食事をしながら話した。

どうやら彼は旅をする中で仲間を見つけて

個人事業主、フリーランスのような生き方を目指してるらしい。

雇用に縛られない自由な生き方を目指して奮闘中だそう。

彼の理念に賛同した私は彼と共に旅に出ることを決める。

次の目的地は福岡だという。

おー偶然じゃないか。と

俺の友達も福岡に住んでるんだよ。

その日は刻々と近づいた。

そんなある日家族から非難を浴びた

家族は勝手に彼のプロフィールを調べ上げて

詐欺だよこれ!

と言って私に見せた

私は詐欺とは思わなかったが別の理由で彼との旅をキャンセルした。

「すまん。やっぱり一緒に旅へ行かないわ。」

私は100パー彼を信じることができなかった。

それが旅の中で亀裂の原因になると思ったのだ。

それを伝えた時

彼から猛烈な罵声を浴びた。

「お前は家族に言いくるめられるような小さい男なんか!」

「自分のことも自分で決められんのか!」

と。

確かにあの時の私はそうだった

実家暮らしともあり家族の言いなりだった

色々と縛られてたのかもしれない。

でも不思議とあの時、私は福岡に行きたいと思った

チケットは彼と一緒に買っていたので

あとは福岡に行くだけ

彼の隣で気まずい空気に耐えるだけだった。

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8.社会人(24歳〜)


24歳

福岡に着いてから人生が変わった。

私は居候の身でありながら

ジモティーを活用して多くの人に会った

仕事も住み込みで見つけた。

ノリで福岡に住むことに決めた。

それから約1年間福岡市に住むことになった。

ジモティーでとにかく多くの人に会い

ビジネスの情報や遊び、説明会

ありとあらゆるものに参加した。

福岡でいただいた多くの刺激が自分の糧となっている。

特に大きかったのがヒロさんとの出会い。

ヒロさんは自分が働いてた会社の先輩で

初めの印象はプロレスラーだった

外見はプロレスラーなのに

どこか知的な雰囲気をまとっていた。

知的というか諦めというか達観した雰囲気を感じた。

そんなヒロさんと初日から意気投合して

飲みに行き

気付いたら運命共同体のような存在になった。

ヒロさんからは様々な学びがある

店員への態度。

人と接する時の物腰の柔らかさ、笑顔

愛で人を包む寛大さ

言葉に表せないがたくさんある。

偉大なるエロ仙人から学び

ナルトは大成長した。

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福岡をでて山梨に行った

ここでも出会いがあった。

良い経験もした。

ベトナム旅行に行った時に

ひろさんからいただいたメッセージ。

「すでにお前は俺の前を行っている。すぐに追いつくからな。」

気付いたら私はヒロさんを超えていた。

それから富士山やバンジージャンプ

などの様々な経験を経て

フィジーへ飛び立った

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9.フィジー〜オーストラリア


留学1週間目


夜のメルボルン
世界一美しい図書館

フィジーでは驚きの連続だった

てきとーなライフスタイル

100年前の沖縄ってこんな感じだろう

と思いながら過ごしてた

たくさんの景色、人、文化、土地、食べ物

に触れることができた

私にとって大切な時間だった

決して生活の質は高くないが

異なる文化を体験することで

確実に私のレベルは上がった

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オーストラリアでは現実の厳しさを知った

稼げる!

すぐ仕事みつかる!

なんて夢のような話はなかった

即戦力にならない時点でクビ

仕事である以上しょうがなかった。

でも一つだけ確かなことがある。

過去の日本人はオーストラリア人に好意をもたらした

私がホテルに入る時はいつも

「beautiful!」

と言っていた。

日本人が素晴らしい人種であることを彼らは理解している

皮肉にも海外に行くことで日本の素晴らしさを実感した

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やはりこうしてみると

沖縄を出た24〜26までの経験が濃い

経験の濃さに伴って人格形成もされている

やりたいこともたくさん出てきたし

なんのために生きるのかも分かってきた。

知識ばかり求めてた18〜24

経験を求めてる24〜現在

やはり経験の方が糧になる

ただ知識があるのとないとでは

経験の質が変わる

優先順位のツボの話があるように

人生においてもどのタイミングで何を入れるか

私の場合は18〜24に知識を入れたことで

その後の人生、解像度が上がった

同じ経験をしても

もらえる経験値が1.5倍になる感覚。

あなたはどうだろうか。

人生において何を大切にしているか?

何歳で何を入れるか

早いに越したことはない。

あとからだと入るものも入らない。

ーーー

人生の棚卸し

いかがだったでしょうか。

楽しんでいただけましたか。

とても長い文章だったので疲れたでしょう。

そんな時は一休みしてください。

ここまで読んでくれてありがとう!

ではまた。


5163字




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