優生学と優生思想の定義
「優生学」と「優生思想」についての理解が一面的な者が後を絶たないので、ここで簡略化して提示します。
詳しくは以下で論じています。
伝統的優生学の定義
優生学とは1883年にフランシス・ゴルトンが定義した造語です。
ゴルトンのいとこであるダーウィンの自然選択理論をもとに、人類の遺伝的改良を目的とする「科学」であるなどと定義されます。
そこには消極的優生学=劣等遺伝子排除と積極的優生学=優秀遺伝子保護の側面がありますが、人類や一定の民族集団のバージョンアップを目的として、政策として実施されてきた、という歴史があります。
つまり、そこには「強制性」があったと言え、「遺伝子の排除」とはすなわち「人の排除」を意味しました。
そのため「強制断種」などが国家政策として行われました。
新優生学と遺伝子治療
しかし、科学技術の進歩によって、遺伝子治療が可能になると、「劣等遺伝子の排除」と「人の排除」が分離可能になります。
そして、国家レベルで強制性を伴うということもなく、民間における個人の自発的な意思に基づく遺伝子治療の可能性が拓けてきました。
男女の産み分けなどに見られる着床前診断はその典型と言えるでしょう。
こうして、それまで強制性を伴って集団に対するアプローチだった優生学は古い優生学=伝統的優生学とされ、遺伝子治療は新しい優生学の一形態であるという主張が現れました。
この概念分配の問題は争いがあるようですが、いずれにしても「その中身が倫理的に許されるのか」という視点で論じることで、実益の無いものと言えます。
優生思想は学術的な定義がない
そして、優生思想は学術的な定義がありません。
この言葉は、優生学の発生に伴って生じました。優生学に見られるような思想、ということで言語化されたのです。
よって、伝統的優生学の要素がそのまま「優生思想」の理解を形成していきました。
しかし、よくよく考えてみれば、劣等遺伝子排除と優秀遺伝子保護の要素を持つ思想というのは、昔から存在していたと言えます。
ですから、優生思想は優生学を包含する関係にあるはずなのです。
たとえば配偶者の選別なんかは原始的な優生思想の実現手段です。
【自分は病弱だけど、子孫は残したい。子供が病弱になるのは忍びないから、配偶者は強い身体の人がいいな】
これは政策でなく、人類や民族集団に対して作用させようとするものではありません。その人の周囲の人間にだけ関係する、個人の自由意思に基づく発想です。
ただし、劣等遺伝子排除と優秀遺伝子保護と言える実質が含まれています。
これは否定されるべきものでしょうか?
更には、遺伝子治療という新優生学もまた劣等遺伝子排除と優秀遺伝子保護の実質が含まれますが、これは優生思想ではないのでしょうか?
優生思想の議論の混乱状況
1:伝統的優生学とその実践としての集団に対する強制政策を優生思想と定義し、劣等遺伝子排除と優秀遺伝子保護の要素を含んだとしても個人の自発的意思に基づくものについては優生思想とは呼ばない、という用法を確立させる
2:優生思想は両者を包含するものとして用法を確立させ、その中身=実質をみて倫理的妥当性を議論していく
いずれかの状況になれば、「優生思想だからダメだ」「いや、優生思想というものはそもそも…」という無駄な議論がなくなるのですが…
まぁ、しばらくはこの用語の混乱は続くでしょう。それは仕方のないことで、倫理学の議論の発展を待つしかないでしょう。もしかしたら、ずっとこの状態が続くのかもしれません。
しかし、そのような言論状況であるという輪郭をくっきりさせることには意義があると思い、本エントリを書いた次第です。
以上
サポート頂いた分は主に資料収集に使用致します。