共産党の言う「法的規制ではない社会的合意」とは?

共産党の言う「社会的合意」による表現の規制とはどの時点のものなのか?

法的規制も字面の上では【社会的合意】だが…

法的規制と社会的合意による表現の自由の制約

法的な規制とは、典型的には国会で議員の多数によって賛成された結果立法・施行された法律とその下位規範である政令・省令等に則った運用により設けられる制限と言えます。

これは、国民代表たる国会議員らで構成される国会の公開議論によって成立したものである、という意味では【社会的合意】という国語の意味の通り。

共産党は「法的規制ではない社会的合意」と言っている。

その違いは何だろうか?

法的規制は予測可能性・手続がある

法的な規制は

①明示的な条文が存在している
②多くの場合、その解釈・判断基準も立法の議論過程(国会だけでなく専門家らによる部会等で公開されている例も)が示されている
③憲法・国会法等に則った正式な手続きを経て立法されている

これらにより「予測可能性」が担保されている。

法的規制】の場合は、変更するためには法律ならば国会の議決で、政令ならば閣議決定で、省令ならば省庁内部での議論が必要。パブリックコメントが行われる場合もある。

したがって、容易には変更できない仕組みになっており、解釈運用の安定性が一定程度保たれるようになっている。

共産党の「社会的合意」は内容不明・変遷・手続が無い

では共産党の「社会的合意」は、上掲の①~③の要素が担保されるのか?

既にある制度を参考にすると、業界ルールという意味では①②は示されることがあるんだろうが(例:「反社会的勢力」に関する銀行の理解)、彼らは国民が選んでいないという点で違いがある。

共産党の言う「法的な規制ではない社会的合意」は、いったいどの時点の、誰の(どこの)決定によって決まり、どこを見れば参照できるのか?

合意があると認定する基準や根拠、手法は?

その時々の空気・情勢によって判断が左右されかねないのでは?

それは予測可能性が無く不安定な規制状況になるのでは?

法的規制によって被害を受けたら、国賠訴訟・行政訴訟・民事訴訟などの司法手続によって被害救済を図る手段が用意されている。

しかし、共産党の言う「社会的合意」による被害を受けた場合には、いったいどうやって被害救済を図るのだろうか?

政権与党となった共産党の意向を受けていることを隠した「国民」が難癖をつけ、彼らからの要求に応じられなければ不利益を被る場合、ダイレクトに表現の自由の規制を国家が敷いたわけではないので司法に対して争う手段が存在しない。それらは「議論」に過ぎないとして難癖をつけてきた国民に対する争う手段すら用意されないかもしれない。

日常にある法的規制ではない社会的合意

確かに「法的規制ではない社会的合意」によって規制が為されている実態が無いわけではない。

日本では漁協と自治体との間に紳士協定のようなものが成立しているような場合が有ったりする。

エスカレーターの並ぶ位置が右か左か、ということは、関西と関東とで異なるが(都道府県で異なる。仙台は右で待つ文化でこの点は大阪寄り)。

「表現」に紐づけて言えば「ポケモンショック」と呼ばれる光の明滅表現を原因とした視聴者の光過敏性発作等・救急搬送された事件をきっかけに業界内で自主規制が行われ、番組冒頭にテロップがついたものがある。鬼滅の刃の劇場版で映画館と地上波とで表現が修正されたのもその影響と言われる。

業界内で決められた一定のルールというものが法的な規制の前に存在或いは法的規制がなくとも機能している。

他方で、アメリカで行われているキャンセルカルチャーも、まさに「社会的合意」のもとに正当化されている。

しかし、それは司法判断を待たずに或いはそれを超えた振る舞いをしていることもしばしばみられる。

社会的合意があるか疑わしい事案

社会的合意があるかのように見せかけながら、実際の所はそうしたものは存在しているかが非常に疑わしい、という例もある。

たとえば「Wi SPA事件」と呼ばれる性自認が女性の生得的男性が女風呂側に入っていたことについて女親が苦情を申し入れた件。店舗側は「カリフォルニア州の差別差別禁止法に準拠しているだけ」と主張しました。

本件はSNSに動画がUPされて炎上し、LGBT活動家や左派メディアからは「事件自体が虚偽の疑いがある」とまで主張されましたが、「犯人」はDarren Agee Meragerという公然わいせつでの前科がある者であると特定され、本件に関連した5件の罪状で今年8月末に起訴されるに至っています。

こうした場合に司法が機能するわけです。

司法の領域に過度にクロスオーバーして社会的合意が優先されるというのは、法治国家として望ましい社会の在り方なのだろうか?

司法の領域ではない部分での『社会的合意』の存在はもちろん有用であるし、厳密に司法の視点から考えると問題だが、現実には司法の守備範囲とされていないという話は多い(スポーツにおけるフィジカルコンタクト、教育時の「しごき」、酷暑環境での指導など)。

ただ、現在司法の領域としている/本来的に司法の領域とすべき事柄までも共産党の言う「社会的合意」にまかせる世の中は、果たして好ましいのだろうか?

「共産党の言う社会的合意」は、既存の法的規制よりも望ましいのだろうか?「既存の社会的合意」と何が異なるのだろうか?

「共産党が決めた範囲での社会的合意」とはならないという確証は、どうやって担保するのだろうか?

実に不安しか呼びこまない主張だと思います。

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