京都大学が自衛官の大学院入学拒否の方針をとった経緯と結果について

過去の一時期に自衛官の大学院入学拒否の方針を表明したり、現実に拒否した事案のある大学についてソースを貼り付けます。

このエントリでは京都大学について書きます。


京都大学学生運動による奥田総長の自衛官入学拒否決定

京都大学は学生運動によって奥田総長に自衛官入学拒否決定をさせたという経緯があり、その事を「誇る」記録がネット上でもたくさん残っています。

たとえば「樹々の緑」通信 京大学生運動史研究会事務局からのお知らせなど。

以下が詳しい。

軍学共同反対連絡会 News Letter NO.30 2019.03.07
京都大学百年史 資料編2』(2000 年 10 月発行)には、以下のような記録がある(自衛官入学問題、647~650 頁)
「全国 25 大学に総額 3 億 2400 万円に上るアメリカ陸軍の資金が流入知っていることが暴露されました。そして京大にも、医学部・理学部・ウイルス研究所に巨額の米軍資金が流入していることが明らかになりました。私たちは、アメリカが残虐なベトナム侵略戦争を行っているとき、アメリカ軍の金で、しかも「細菌兵器」の開発に利用される恐れのあるような研究を行うことを断じて許すことはできません。と同時に、京大大学院工学研究科に 20 数名の現職自衛官が入学し、それを通じて大学が軍事研究に協力していることを、もはやこれ以上放置しておくことはできません。私たちは、工学部教授会が勇気を奮い起こし、きっぱりと自衛官入学拒否の態度を決定されることを心から期待します」(京大 5 者連絡会議主催、全京大 1 万人集会大会宣言、1967 年 6 月 8 日)
「自衛官の入学に反対する京大同学会は、1967年 6 月 29 日の全学ストに続いて同夜から法経第1 教室で学生約 2 千人が集会を開き、奥田東総長、各学部代表らの出席を求めて 30 日明け方まで徹夜団交を続けた。この結果、大学当局は学生の要求を受け入れ「自衛官が京大へ入ってこない方向で大学当局の意見をまとめる」と自衛官受け入れを事実上拒否する方向を明らかにした。同日午後の学部長会議で正式に決定する見込み。学生ストに続く団体交渉で学生たちの要求が全面的に受け入れられたことは京大始まって以来のこと。今後の大学運営はもとより、他大学の学生運動にも大きな影響を与えるものと見られている」
「団体交渉は 29 日午後 10 時 20 分から奥田総長を超満員の同教室に迎えて開かれた。席上、総長は『30 日に開く学部長会議で諸君の意見を反映した
い』と述べたが、学生たちは満足せず『誠意ある結論出せ』と要求、団交は平行線のまま紛糾した。30 日未明にかけて一部学部長や学部代表教授が次々と姿をみせた。この間、総長の『京大に自衛隊が入ってこないよう意見をまとめる方向で努力する』と述べたのに対し、学生たちは『文書にしてサインを...』と迫った。同日 3 時 25 分になって、これまで団交を拒否していた前田敏男工学部長が姿を見せ『学生の反対を認識の上、その解決に努力する』と緊急工学部主任会議の結論を読み上げたため事態は急変、解決の方向へ向かい、団交に出席していた芦田穣治理学部長、大橋隆憲経済学部長代理、杉村敏正法学部長代理、...庄司光学生部長らも次々に学部などを代表して総長の発言に同意、結局、14 教授のうち 8 人賛成で同 4 時、総長は『学部長会議を開きその結論を同学会に知らせる』と約束、同学会はこれを了承して団交を終わった」
自衛官入学反対闘争が勝利した背景には、奥田総長時代(1963~69 年)の学生部長は、芦田穣治(理学部、1958~64 年)、山岡亮一(経済学部、1964~65 年)、西尾雅七(医学部、1965~66年)、庄司光(工学部、1966~67 年)など、教官研究集会の世話人を務めるリベラルな教授たちが連続して起用されたことがあった。

「京大大学院工学研究科に 20 数名の現職自衛官が入学し」というのが【発端】だというのが分かります。

「京大大学院に防衛大卒業者が居るからファクトではない」⇒?

インファクトが櫻井氏の発言の「ファクトチェック」を行った記事では、櫻井氏の発言が「誤り」と判定する文脈で以下あります。

防大卒業後、京都大学大学院に進学した陸上自衛隊幹部など、複数の事例が確認できた。

この「防大卒業後、京都大学大学院に進学した陸上自衛隊幹部」とは、リンク先を見ると「森 清勇」氏ですが、本人が書いた記事では以下述懐されています。

日本人から「学問の自由」を奪ってきた日本学術会議国家の存在を脅かす数々の提言、もはや存在意義失う2020.10.15(木)森 清勇 
 学術会議の声明によって、大学などは研究を制約されてきた。真に必要な研究ができなくなったという点で、まさしく「学問の自由」を剥奪したのだ。
 同時に、その影響は多くの自衛官が日本の国立大学の大学院へ行けなくし、また大学院に在学中の院生は上級課程への進級が不可となった。
 昭和42(1967)年、修士課程2年目に在席して研究などに勤しんでいた筆者は、博士課程への進級ができないと告げられた。
 理由は告げられなかったが、当時は防衛庁側の要請という認識が先にあり詮索することはなかった。
 しかし、その後に得た情報からは1967年10月の学術会議の声明の結果であった。
 当時はどの大学にも安全保障講座や軍事技術関係の研究室はなかった。したがって、大学院に学んでいた自衛官は「軍事目的の科学研究をしていた」わけではなかった。
 筆者が去った後も所属した研究室は存続したこと、また、他の多くの分野でも自衛官だけが大学院から排除されたことからは、「自衛官」=「軍事研究」と短絡的にみなされたのだった。
 これは「学問の自由」の排除であり、マスコミが好んで使う「差別」以外の何ものでもない。

このように、むしろ「京大大学院工学研究科に 20 数名の現職自衛官が入学し」というのが【発端】になっているのだから、「在籍していた」というのは、櫻井氏の主張の根拠の否定のためであったとしても、不適切だというのが分かります。

なお、現在は京都大学法学部に進学した自衛官が紹介されているなど、状況は変わっています。

少なくとも1989年に学生有志から奥田決定に関して再考を求める要望書が提出されているので、22年間はこの状況が続いていたようです。

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