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岩波「世界」5月号の吉見義明ラムザイヤー論文批判文について

岩波書店の「世界」5月号にて、ラムザイヤー論文を批判する文が掲載。

講演で話した内容に加筆をしたもので論文形式ではないんですが、この内容をベースにしたものをIRLE(ラムザイヤー論文も掲載予定の論文誌)に提出しているとのことです。

詳しい話は本稿では書きませんが一応はもっともな批判もある内容でした。

ただ、最後の「おわりに」の項でラムザイヤー論文の掲載そのものをやめるようIRLEに要請しているのですが、「研究不正の事実」について論証しているわけでもなく、この点に限っては無理がある主張です。ハッキリ言って唐突過ぎました。

「慰安婦は契約関係」についての批判はそれなりの根拠に基づいて行っており、ラムザイヤー論文の主張の妥当性に反証を加えているのですが、そのような中身の話では無く、論文の掲載そのものを無くすよう働きかける意味が分かりません。学者としてどうなんだろうと思います。

で、「慰安婦は契約関係」に対する批判としては

・個別事案、一部の事件を持ち出して全体を否定する論調
・ラムザイヤー教授が主張していない「モノ」を相手に否定してみせている

吉見義明 氏の主張に対する私の印象はこうです。

たとえば、ラムザイヤー教授は日本軍が慰安所経営をしている中で、不幸な境遇の女性が発生してしまったことについての道義的責任が無いとまでは明言していません。

ラムザイヤー論文が論証しようとしているのは、慰安婦を取り巻く環境は、「性奴隷」という単語から想像されるような環境が一般的だったのではなく、【一般的には一定の労使関係に基づいて酌婦稼業の労務の提供に対して金銭の支払いが行われていたという関係にあったこと】であり、司法判断を加えた場合に契約が有効に成立するか否かという話ではないということです。

契約が無い場合ももちろんあったでしょう。契約内容が不当なものだった例もあるでしょう。

しかし、総体的に見て基本的には契約関係が主であった、ということを書いているだけの論文です。

日本軍の無謬性を証明しようとしているのではありませんから。

スタンダードな扱いがどうだったのか?という話をしているところに、例外事例を持ち出してスタンダードではない、という非難の仕方は、論理が対応していません(吉見氏は「そういう事例が多数ある」とも書いているが、少なくとも論稿の中では「多数ある」が示せていない)。

吉見氏の論稿は「世界」5月号を見る限りはそういうものになっています。

吉見氏もそれを自覚していると思われ、論稿の中では「強制連行」という単語は出て来ていません。

吉見氏は『軍直営の慰安所で人身売買されたり、誘拐されたりした女性が「慰安婦」にされたら、最も責任が重いのは軍となり、軍が主犯というべきだろう。』と書いており、強制連行の主体としての軍の責任ではなく、全体としての慰安婦の待遇に関する日本軍(日本政府)の道義的責任を問うているのであって、それは「字面の上では」以下のエントリで示した慰安婦問題の理解と同じです。

問題は、世界に向けてどのような認識をもたらすことができるかです。

言葉の使い方ひとつで読者の認識を誘導することができ、明確な誤りでなくとも読者に事実と異なった認識をもたらすことは可能ですから、伝え方、用語の選択に注意すべきなのです。

その例として本日発見した事件がありましたので置いておきます。

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