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オンライン・マルチプレイの世界で言語能力は育つだろうか。

育ちにくいのではないか、と私は考えている。

何故なら、私が知ることができる範囲において、20年以上に渡って長いことオンラインゲームを遊んでいても、コミュニケーションの問題を話し合いで改善していくなど、その変化を未だ見たことがないからだ。

オンラインゲームの世界では声が自由に使えるようになった今でも、それにブレーキを掛けたり、上手く諭したり窘める人を見かけることは殆どない
喋りたいことを喋っているだけで、嫌なことはミュートやスルーが自衛策だなんて声高に言われる。私はそれを最善とは思わない。時と場合による。

周囲の反応から意味を推測しようとする場合、否定されなかったこと=肯定と受け取られることがある。
無言、無反応、無関心が意図せず肯定していると受け取られては大変だ。だから私は最善だとは言いたくない。

言葉を使いこなす能力の一部は、相手との言葉のやり取りとその反応から学習して育つのだと感じている。環境によって生成される言語を選び取って身につけている。
だけど、オンライン・マルチプレイでは、その反応は鈍い。実際に目の前で起こっていることに比べて鈍い。
テキストであったり、声のみであったり、カメラがあったとしても目の前にいる人から得られる情報量と比べれば雲泥の差だ。
テキストチャットやボイスチャット(VC/無料通話など)は、基本的な言語を扱う能力があってこそ、活かされる機能だと思う。

では基本が備わっていなかったらどうなるのだろう?と興味を持つ。
私が知ることができる範囲に限定される話なのを前置きして回顧しても、改善されるどころか悪くなる一方に感じた。

見知らぬ他人に『殺す』と言う子ども

先日、オンライン・マルチプレイでバトルロワイヤルFPSを遊べるApex Legendsで、まだ声変わりもしていない男の子に『殺す』と言われた。

仕事が片付き予約も入っていない日、少し早めの夕方に帰宅した。
こんな時間にはどんなプレイヤーがいるのだろうかと気になったのもあり、日本データセンターで接続してAPEXトリオで始め、間もなくだった。

エーペックスレジェンズ


パーティ内で通じるボイスチャットから子どもの甲高く賑やかな声が聞こえる。声変わり前の男の子の声だ。最初は早口で何を言っているか聞き取れず英語かと思ったが、耳を澄ますと語彙の少ない発音が不明瞭なだけの日本語だった。声質から10歳前後だろうかと推測する。
お世辞にも、かわいらしい会話では決してなかった。どちらかといえば、昔のヤンキーと呼ばれる元気の良い青年を思わせる言葉使いの粗さだ。
子どもの背伸びと見ればかわいくなくもないが、粗野な口ぶりがスピーカーから垂れ流されるのは、あまり気分の良いものではない。
話している相手がいる様子なので、2人で組んでAPEXトリオにやって来たのだろう。
甲高い声が苦手だったので組んで遊ぶ気はなかったのだが、1マッチだけだしと滞在することにした。ミュートにすることも考えたが、どんなことを話しているのか気になって、そのままにしておいた。

偶然にも私がジャンプマスターだった。
3人組のいずれかがリーダーに選定されて、その降り立つ場所を決めるのだが、必ずしもその決定に従う必要はない。好きなタイミングで戦場に降り立てばいい。
総勢60人20組で始まるその戦いで、私は他の19組の動向を伺い、ギリギリまで飛び立たなかった。
するとその甲高い声が喋り始めた。
『なあ、コイツやる気ねぇんじゃね?』
私をコイツ呼ばわりしている。相手が自分と同じ年頃と思っているのだろうか。まさか、自分の親と変わらぬ年齢の大人が同伴しているとは想像していないのか、或いは見知らぬ他人への敬意をまだ身につけていないのか。
その後もコイツ何?と連呼しているが放っておいた。私の決定が気に入らなければ、黙って2人で降り立てばよいからだ。
『マジ』『クソ』『コイツ』
あまり多くない言葉をなんとか組み合わせて騒いでいるような会話を耳にして、この年頃の子どもならもっと言葉を知っている筈だけど、使いこなせていないのだろうか?と疑問も抱いた。

すると、
『なあコイツやる気ねぇんじゃね?もう殺す?』
と言う。その後も
『殺す』
と続く。2人で見捨てるかどうかを話し合っているようだ。
なんの打ち合わせかと笑ってしまった。
私はソロでも上位3位内に入れる潜入能力があるので(笑)、ご自由にどうぞと歯牙にもかけなかった。
「もう殺す」と言われても、ほんの数秒待機させているだけなのだが。
威勢がイイのでどんな戦い方をするのだろうかと興味が湧き、キングスキャニオンのリパルサーに降り立つことにした。ここでいきなり接敵して戦闘になるか、そのままハイドロダムで装備品集めに行くか、いずれにしても騒々しいエリアだ。

このエリアで装備品を集めているのは自分たちだけではない。
少し早く降り立ち先んじて良い装備をと、またはスコアアップを狙って動くものは全て撃つ様な輩が目を光らせている場所だ。
降り立った彼らを見る限り、そんな危機的状況に飛び込んだとは気づかない様子だった。
撃ち合いに自信でもあるのか、遮蔽物を利用せず、身も隠さず、堂々とそこらを歩き回っている。降り立ってもシグナルは一つも鳴らず、装備品集めに集中しているようだ。
鴨がネギを背負って来た状況だった。
このゲームの面白さの1つは用意された沢山のシグナルを使い、円滑に意思疎通ができることだ。同じ意味のシグナルでもキャラクター毎に台詞が異なるので、そのシグナルを選び喋らせる行為はまるで選んだキャラクターを自分が演じている様な気持ちにさせる。
キャラクターの魅力からゲームに没頭するタイプの人には、堪らない魅力となるだろう。
しかしシグナルはそれまで一度も鳴らなかった。
案の定、すぐに狙撃され始めた。
そこら中から銃声が聞こえる。まだ装備の整っていない私では2人を同時に守り応戦するのは難しい。
2人の状態を表すゲージはみるみる減って行きダウン、彼らの悲鳴に連動してボイスチャットのスピーカーアイコンが画面端で点滅する。
その間ずっと甲高い声で、
『は?』
『何?』
『は?なんなん?』
と連呼しているが、これは使い処すら間違っていて滑稽を通り越し、薄らと悲しい気持ちになった。
あまりに『は?』が力強いので、仕舞いには私の脳裏で和田アキ子さんの名曲が自動再生される始末だった。
時間にすると2分も経っていない。最下位での脱落。予想できる結果に、すぐロビーへ戻ると、私は別の試合へのマッチングを申請した。
ロビーへ戻る寸前、小さな声で「ごめ」と聞こえたが、それはきっとコイツ呼ばわりしていた私に宛てたものではないだろう。

次のマッチング申請中に、先程のトリオのもう一人から自分のパーティへ来るよう誘われたが、気が乗らなかったので断った。
このゲームは、パーティを予め組んで戦うことで獲得するポイントにボーナスが付く。見知らぬ相手が必ずしも好意的であるかは、測りかねる。

彼らがオンライン・マルチプレイで得られるものは

ゲームプレイで、そのゲーム体験で、得られるものとはなんだろうか。
見知らぬ子どもに「殺す」と言われてからずっと、気になっている。
他愛ない出来事と一蹴してしまえば、それは永遠に謎のままだ。
何度目かの過渡期の子どもが乱暴な口をきくのは珍しくない。周囲の反応を見て獲得したいものを選んでいるのだから、その子がそのまま粗暴になるわけではない。
だけど、見知らぬ他人に「殺す」と口走れる感性は、それらとは違うのではないかと。周囲がその「殺す」を許容している環境に彼らはいるのだろうか。
私は見知らぬ人に乱暴な口をきく子を許したりはしない。

幼い子どもがオンラインで遊べる環境、粗暴な言葉使い、その言葉使いを咎める大人が居ない生活環境、想像すると軽く寒気がした。
しかも残念ながら Apex Legends のレーティングはD、対象年齢は17歳以上だ。レーティングはただの目安でそれを止める手段がないにしても、与える側は一考するのが望ましい。特に、声変わりもしていない子どもに与える場合は。


著しくゲームの楽しみを阻害するプレイヤーには、運営側からペナルティが加えられる。しかしプレイヤー間の日常的に見えるトラブルに全て運営が介在するとは限らない。
プレイヤー同士の個々の対応に委ねられているが、誰しもがとのトラブルに対処できるわけではない。
すると必然的にスルーする場面が増える
関わらなければ、それ以上トラブルが自分の世界に存在し生じ続けることはないからだ。

スルーする場面が増えれば会話に対する反応は減る。反応がなければ、学び取る難易度は上がるのではないだろうか。
発言が否定一辺倒であったり無視する環境にある子ども、どの発言もなにかしらの言葉が返って来て会話が続く環境にある子ども、どちらの言語が発達するのかは素人目に見ても想像し易い。

オンライン・マルチプレイの世界では、この反応が必ず得られる訳ではない。その中に身を置いて得られるものは、好ましいものばかりではない。その子の好奇心や刺激に対する反応、周囲の大人を含む生活環境にも左右されるだろう。
好ましくないものを吟味せずに否定する傾向を持っていれば、得られるものは極限られた少ないものになるのではないかと。

子どもの頃の体験は後々の生活に大きく影響すると実体験からも思う。
その掛け替えのない時間を乱暴な言葉とともに過ごし、反応の少ないオンラインゲームに興じるのはどうなんだろう。

昔、恩師が「感動が子どもを変える」と話してくれたが、変化をもたらす感動を得ること、その機会は今も昔も変わらないのだろうか。
今は亡き恩師に尋ねたい気持ちだ。

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トライアル・アンド・エラーで自分の成長を楽しむ

このような問題について話し合いをし議論し対処の手段を出し合うことは、成長に伴って身につける知恵だ。
SNSや各種フォーラムで、それは場所も時間も問わず可能だ。いつでも目の前で始められる。
だけど、まだ言語能力を獲得する過程にある子どもはどうなのだろうか。

家庭や学校、職場、その年齢その場所に応じて様々なコミュニティがあるだろうから心配には及ばないが、コミュニケーションを取る(交流する)能力は言語を獲得するにつれて同時に成長するとすれば、どうだろうか。
言語を獲得できぬままでは、コミュニティを活かせない。
文章を読めなければ問題は解けない、そういうことだ。

先程の声の甲高い彼らに、その能力が十分に育っているとは考えにくい。
「は?」と疑問形で連呼しているのは虚勢であり、現実に起こっていることを受け入れられない、否定したい気持ちの表れだと感じた。勝ち残るべき自分たちが最下位の憂き目に遭っているのだから当然だが。
大人でもそのような場面は幾らでも出くわすが、いつも否定する訳にはいかない。いつかはその問題と対峙しなければ、「は?」と言う受け入れ拒否の時間は続いて行くからだ。

オンラインゲームには遅延やエラーは付き物で、必ずしも自分の実力で名声や肩書を得られる訳じゃない。実力が100%ではないにしろ、努力で埋められる部分も多くある。だから目安とされるものがあるなら獲得したくなるのがオンラインプレイヤーの常だ。

受け入れがたいこと全てを否定していては、どのゲームもいずれは遊べなくなる。
結局、誰とも組まず遊ばず、1人で短時間で完結し、予想できる結果が得られる≒安心と言ったものに偏って行くだろう。
それでも構わないが、その経緯と理由が“否定の結果”であるなら、こんなに寂しく面白くないものはない。

否定するのはとても簡単で、手っ取り早く自分ではない他の何かのせいにする事で肩の荷を下ろし気持ちを落ち着かせることができるが、内面の成長はその時点では止まっている。
肯定していくことの大半は辛い作業ばかりだが、直視=肯定ではない。何がどうなっているのか理解しようとする自分なりの手段を用意できれば、必ずしも辛い作業ではなくなる。
否定して乗り越えられないものは、肯定することで解決できることもある。

声の甲高い彼らが今戦わなければならないのは、結果を否定する自分自身なのだろう。
結果から原因を学び、それを踏まえて再度挑戦する試行錯誤するトライアル・アンド・エラーがゲームでは幾らでもできる幸いがある。
受け入れがたい結果を乗り越えた時の楽しさはゲームにもあり、それらを得られる機会がコントローラーを握る誰にでも用意されているのがゲームのイイところだ。

…などと頭の中に霧散している気掛かりを整理する為に走り書きしているけれど、本心から数多のゲーム体験が全てのプレイヤーに福音でありますよう願っている。

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