雪組バウロマンス「ほんものの魔法使」を観て(ネタばれ)

まずはこの作家さんの作品を選んでくださった宝塚歌劇団に感謝します。日本語訳も再販され手に入れることができました。先日日帰りで観劇し、本日配信を観ました。今回は個々の配役についてではなくお話全体についての感想を書きます。

木村信司先生が以前演出したF・スコット・フィッツジェラルド原作の宙組バウ公演「リッツ・ホテルくらいに大きなダイヤモンド」も勧善懲悪というようなわかりやすいメッセージではなく考えさせられる話だった。今回の「ほんものの魔法使」も観劇者に「これはどういうことだったのか」と考えさせる余地を与えてくれる作品だったと思う。

マジシャンのコンテストに出場するためにマジェイアという街に来たアダムは純粋に魔法が使える。一方他の人は手品師であるため、本当の魔法使いがでて来ては自分達の立場がないのでアダムを排斥しようとするというのがこの話の大筋だった。

アダムは完全に純粋無垢な青年で父親も母親の存在も語られずどこから来たのかもよく分からない。ただなぜか魔法が自然に使える。それが悪い魔力や人を攻撃する力ではなく超自然的な力、バラを成長させて花を咲かせる、食事を豪華なものに変える、蜂や蝶を操るなどで、アダムのジェインへの説明によるとニワトリが卵を産むのも仕掛けがあるわけではなく魔法の力だった。ジェインが魔法使いになりたいと言うと、ふたつの箱が心の中にあるとアダムは言った。

ああ、それでポール・ギャリコはこの話の主人公にアダムと名付けたのかと思った。旧約聖書で創造主が世界を作り最初の人間にアダムと名付け、新約聖書で神の子イエスが「カナの婚礼」で水がめの水をワインに変えたとか、魚が取れない時に大漁にしたとかいう奇跡に通じるものがあり、そのためにイエスは最終的に極刑に処せられるというところもアダムが最終的に捕まりそうになるところに通じていた。そして箱が心の中にあるという話は契約の箱「失われたアーク」のような印象を受けた。小説も劇も完全に架空の街の話としているけれど、これらのような聖書的なお話の下地を感じた。

結果的にアダムは捕まる前に金貨の雨を降らせて街の人を骨抜きにし、逃げる。その時にアダムがなんとも言えない切ない表情をしていていたのが忘れられない。

結果的に、金貨の雨のおかげで生活に困らなくなった街の人はマジシャンとしての研鑽をやめてしまう。マジックの街なのに。子供が好きでマジックをしていたニニアンだけが自己研鑽の末マジックが上達したがもう辞めるという。ジェインは兄のピーターのこれまでの両親の期待を受けた立場の辛さも理解しピーターと和解している。

ジェインもまた純粋な子で、最後にジェインは心の箱を開けアダムとモプシーが現れるのだが、やはりアダムが普通の人間ではなく純粋無垢な神の子的な存在として位置付けられているのかもしれないと思った。あるいは皆そうなのだけれど忘れているだけなのかもしれない。これまでポール・ギャリコという作家を知らずに生きてきたが、他の作品も読んでみようと思った。





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