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「もう大丈夫」としか言えないときがある

以下大部分は、ちょうど1年前の2023年5月に書いた文章です。
たぶん酔っ払った頭で書いてますね。


小さなころはよく怪我をする子どもだった。
無鉄砲で謎の自信にあふれていたからか、ちょっとした無茶をしては切り傷かすり傷をよく作った。

転けて血が出ると、周りの人は寄ってきて「大丈夫?」と聞く。
僕はとっさに「大丈夫」と答える。反射的に。

強がっていたい。心配をかけたくない。迷惑をかけたくない。
そんな気持ちもあるかもしれないけれど、コンマ5秒で大丈夫と答えるその瞬間はもはや反射でしかなく、熱いやかんを触ってしまったら手を話すのと同じように「大丈夫?」と聞かれたら「大丈夫」と答えるようにプログラミングされていた。

そうして痛みを家に持ち帰って、戦うのはだいたい自分ひとり。
感覚的に喜びを分かち合うよりも、痛みを共有することはもっと難しい。
自分の傷の痛みがほんとうの意味でわかるのは自分だけ。

以前に友達と「なぜ人に悩み事を相談できないのか?」について話をしていたときに、とても共感した話がある。

人に相談すると、相談に乗ってくれる人の顔色をうかがってしまう。
最終的に「相談前より良くなった」という顔をして帰らなければいけない気がする。

友達


自分にも幾度となく似た経験がある。

「なんだかちょっと楽になった気がする」
「頑張れそう」
「もう大丈夫だと思う」

そんな少し耳障りのいいセリフを残して、その場を収めて帰る。

理由は色々。
相談相手がいい人過ぎて、時間を作って話を聞いてくれたその方に対して「何もよくなりませんでした」では申し訳ないから。
相談に乗るという名目であまり話を聞かずに自分の意見ばかりを押し付けられてしまうその場に疲れてしまって早く終わらせたいから。(稀ではある)
弱っている姿をあまり長く見せまいという小さなプライド。
相手にいい気分になってもらえるように気を遣ってしまうから。

ただでさえ、悩んで心の重たいときに、目の前の相手のことを慮って気を遣ってしまうなんて。
「お悩み相談」が一通り終わった帰り道は、相談前よりもどんよりと重たく、孤独を感じる時間になってしまうことが多い。

4月に『ぬいぐるみとしゃべるひとはやさしい』(以下、ぬいしゃべ)という映画を見た。
僕の京都はぬいしゃべの舞台となった町であることもあり、京都シネマではぬいしゃべのポップアップ展示が劇場の一角を独占していた。

そんな中あるコメントに特に共感した。

京都シネマの壁展示

「大丈夫?」という問いに
「大丈夫」と答えてしまう時、
答えさせてしまう時、
わたしたちはきっと、
少しずつ確かに大丈夫じゃなくなっていく

ライター / 丘田ミイ子



「大丈夫じゃない自分の隣にそっと佇んで一緒に雨に打たれてくれないか?」
そう自分に問う。

「ひとりじゃないかもしれない」と微かに感じられるだけで、どれだけ心強いことか。

あとは時間薬ってやっぱり有効で、優しさに心をあたためてもらっている間に、いつしか悩みはどこかへ行ってしまったなんていう経験がある。
重大だった悩みも案外、些細なことでコロっと小さな存在になってしまったりする。

心の中で大きく偉そうな顔でふんぞり返りはじめたかと思ったら、海風にふっと吹き飛ばされてしまうようなかわいい悩み。


つらつらとあっちに行ったりこっちに行ったりしたけれど、ここらで締めます。


ここから先は2024年5月追記

ここまで文章を書いてたのに、もはや覚えてないような、小さな躓きで公開されることはなかった。
iPhoneのメモ帳はフォルダ分けがかなりぐちゃぐちゃ。
短歌を詠もうと思って、短歌のフォルダを開いたら、掘り出し物的にこの文章が出てきたので久しぶりに読んでみた。「ええやん」ってなった。

過去の自分は少し他人みたいで、好きにはなれないことも多いのだけれど、1年前のこの自分は今でも共感できて、ちょっと好きでした。
そんなこんなで公開した次第です。
当時読んでほしかった人が読んでくれたらいいな、と思ったり。

ここまで読んでくださってありがとうございました。
今日も明日もほどほどにいい日になりますように。

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