やりたいことがないなら、他人の欲望を真似する仕組みを作ればいい
プログラミングを学ぶとき、最も効率がいいのは自分がやりたいことを実現するための知識を探し出して身につけることだとよく言われる。プログラミングに限らず、こうしたい、ああなりたいという欲望は学びにおいて重要だし、日々の生活を豊かにするうえでも欠かせない。
欲望ドリブンで物事に取り組み進捗を獲得するのは非常に望ましい。しかし、自分の欲望は一見無限に思えても気まぐれで、とても貴重だ。
欲望したいときに都合よく欲望することは難しい。なにせ、僕たちは来週の昼ご飯に何を食べたいかすらいまはまだ分からないのだから。
やりたいことをやって生きていければ、そうでない場合より人生は豊かになり、多くの人はそれを望んでいるだろう。人によってはやりたいことをやる時間もお金も自由もないかもしれない。
しかし、おそらく、大多数の人にとって問題はそこではない。僕たちは人生を豊かにするための「やりたいこと」を充分には見つけられていないのだ。
では、やりたいこと——欲望はいったいどうすればもっと手に入れられるのか?
欲望は気まぐれで貴重な資源
いつでも自由に欲望できるし欲望に飢えたことはない、という人はきっと少ない。まず、人間の欲望がいかに貴重な資源かという事実を認識するところから始めないといけない。
僕はいまサッポロビールを飲みながらこれを書いているが、冷蔵庫を見たらサッポロビールとキリン一番絞りが入っていて、どちらかというとサッポロビールを飲みたいなと思ったから飲んでいる。サッポロビールを飲みたいという欲望は、冷蔵庫を開けるまで存在しなかった。
このように、僕たちが欲望できる物事やタイミングは限られている。逆に、なんとなく惰性で物事を体験するのは簡単だ。目の前に提示されたものを手に取ればいい。たまたま僕がキリン一番絞りの存在に気づかなかったら、僕はサッポロビールを飲みたいとすら思わず手に取っていただろう。
もし任意の物事に任意のタイミングで欲望できるなら、生きていく苦労は少なくて済む。さらにそれを自由に行使できるなら、苦労はもっと少ない。会社で仕事をしているときにビールを飲みたいと思っても、なかなか実行は難しいだろう。
しかし、食べたいもの、飲みたいものが分からない人が大勢存在する中で、ビールを飲みたいと思えること自体は幸いだ。なんとか仕事を終わらせて、その欲望を叶えるために動き出せる。
みずから欲望するだけでは枯渇する
1日のうちに自分が何回欲望を抱いたかを数えると、案外少ないことに気づく。猛烈な欲望に動かされている時間も短いだろう。
欲望が多ければ多いほど人生を豊かにできる可能性が高まるのに、なんたることだ。僕たちはこんなにも欲望することが下手だったのか? いや、たぶん、人間というのは昔からそんなものだ。
晩ご飯に何を食べたいのかを考えるだけで疲弊するのだから、みずから欲望を探し続けるのはとても苦しい作業だ。あっという間に枯渇する。
どうすればいいのか? ほとんど無限に存在する、他人の欲望に従えばいいのである。
他人の欲望ドリブン
僕はジャック・ラカンなる人物が本当に嫌いだが、彼が言ったとされる「人間の欲望は他者の欲望である」という言葉は大好きだ。共感のような言葉に代表されるように、人間はとかく他人に影響される。欲望さえも!
それは悪いことのように思える。違う。それはいいことだ。自分は1人しかいないが、他人は70億人以上いる。70億倍の欲望がこの世には存在する。人生80年と考えると、実質無限だ。みずから欲望するだけだとあっという間に枯渇してしまうが、他人の欲望を真似することで、僕たちは無限に欲望できるのだ。
自分の欲望ドリブンではなく、他人の欲望ドリブンで生きていけば、人生はもっと豊かになる……かもしれない。僕は少なくとも何にも欲望していないよりはいいと思う。まあ、どう捉えるかは自由だ。
他人の欲望を機械的に取り入れる
問題は、どうすれば他人の欲望を自分の欲望にすることができるか、という点だろう。そう、そもそも他人の欲望を欲望するという欲望を抱かないとダメなのだ。それだと意味がない。だから、機械的に取り入れる必要がある。
僕が実践しているのは、誰かが好きとかお勧めとか言っている物事は是非を考えずにとりあえず体験してみること。『They Are Billions』が紹介されているのを見て、プレイしてみた。高田馬場のとんかつ屋、成蔵にも行ってみた。
最初に自分の欲望はあまりない。体験してみて「よかったな」と感じることはあるが、そのときにこそ他人の欲望は自分の欲望になる。人生が1つ豊かになった瞬間だ。面白いゲームは続けたくなるし、おいしかった店はまた行きたくなる。
他人の欲望を取り入れるとき、「自分も体験してみようかどうか」という選択のような自分の欲望を介在させるとうまくいかない。そもそも枯渇しがちな資源をそこで浪費するのはもったいない。機械的に取り入れるのがコツである(もちろん、体力、金銭、時間といった制約と話し合う必要はあろう)。
よくない体験になったときも、自分で選んだのではないと言い訳しやすいから気楽だ。
ものまねで世界を救う
最後に、僕がこういう考え方に至ったラカンとは別のきっかけを紹介しておきたい。
『ファイナルファンタジーVI』というロールプレイングゲームがある。このゲームは何人も操作可能なキャラクターが登場し、プレイヤーは任意に自分だけの主人公を選ぶことができる。それぞれのキャラクターはそれぞれの動機をもって、崩壊した世界に君臨する自称神・ケフカを倒しに行く。
その中で1人、極めて特殊なキャラクターがいる。ものまね士のゴゴだ。彼または彼女(まさしくThey)は崩壊後の世界にある、特別な方法で侵入できる洞窟の中で佇んでいる。世界を救うという使命感にあふれるプレイヤーはゴゴを見つけ、話しかける。
ゴゴはこんなことを言ってくる。
俺は、ゴゴ。ずっとものまねをして生きてきた。お前達は、久しぶりの来客だ。
そうだ。お前達のものまねをしてやろう。お前達は、今なにをしているんだ?
そうか。世界を救おうとしているのか。
では、俺も世界を救うというものまねをしてみるとしよう。
プレイヤーはちょっとした衝撃を受ける。こいつは何を言っているのか? こっちはケフカに家族を、恋人を、大事な人を殺され、国を、故郷を、生きがいを奪われたのだ。そんなおれのものまねをするだって? 世界を救うものまね?
あまりにもふざけた台詞だ。でも、実はこれはプレイヤー自身のことなのだ。プレイヤー自身はケフカに大事な人を殺されていないし、故郷を奪われてもいない。あくまでゲーム内のキャラクターが味わったことであり、プレイヤーは任意のキャラクターに感情移入しているだけ。つまり、キャラクターが抱く欲望のものまねだ。
ここに多くのロールプレイングゲーム(あるいは僕たちの人生)の真理がある。プレイヤーは結局登場キャラクターが抱く欲望のものまねをしているだけなのだ。しかし、そのものまねがなければ世界は救われない。そして、そのものまねこそがよいプレイ体験を生む。
ゴゴは世界を救うものまねをした。世界を救うことすらものまねできるなら、他人がお勧めする物事に手を出して見るなんてあまりにも簡単だ。
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