見出し画像

内向的で孤独も平気な自分がメタバースに出会って1年経って、どうなったか

待っていたら何かが起こる。
我慢していたら察してもらえる。
その場にいれば気にかけてもらえる。

そんなことは一切まったくありえず、自分本位で都合のいい妄想にすぎないとすっかり理解していても、他者の視線が気になってしまい、誰かに変に思われたり迷惑をかけたりすることが怖くて自分から行動を起こせない人は、とにかく受け身の姿勢になりがちです。

2020年初頭という変わり目

僕自身、長らくそんな感じで積極性やいわゆる陽キャ的な振る舞いとは遠い人生を送ってきました。特にこの数年は1人暮らしで自宅と会社を往復し、SNSと動画サイトを眺めながらゲームをしていることが大半で、本当に誰かと話す機会も時間もなく。職場ですらたいして雑談もしないし、飲み会にも行っていませんでした。

それが極まったと感じたのが2020年初頭で、仕事が全面リモートワークとなって以降。これまで以上に喋る時間が減り、仕事を入れても1週間のうち2時間も声を出していない日々だったような気がします(さすがに言いすぎな気もしつつ、仕事外ではマジで一言も喋らない日がほとんど)。

こういう状況を辛いと感じる人がいる一方、僕は別に平気で、1人でいることにも特に苦痛はなく、孤独やぼっちに対してなぜそんなに悲観的で自虐的になる人がいるのか共感がありませんでした。

理解はできます。なぜなら、そもそも人間は社会に最適化するよう進化してきたので、社会的な繋がりを得ると報酬として快楽が生じるようになっているからです。また、「どうやら孤独はダメなことらしい」という認識が広まっているのもあるでしょう。孤独であることは社交力のなさのシグナルでもあるので、自身の評判(信頼されやすさ)にも関わります。

慣れと麻痺

けれども、どれくらい社会性を求めるかは個人差がありますし、まったく必要としない人もいれば、むしろ孤独でいるほうがはるかに快適な人もいると思います。

僕の場合はおそらく社会性を求める程度が低いという性質と長年培ってきた慣れと麻痺がありつつ、noteでeスポーツの記事を書いてそれなりに読まれていたことが社会的な繋がりとなっていたのかもしれません。ただ、明確な他者との繋がりはほぼありませんでしたし、あのとき友達と明言できる人を挙げてみてと言われたら……。

もちろん、記事を読んでくれた人が連絡をくれて、Discordやオフラインの場で話したことは数えきれません。しかし、それらはたいてい一度きりのもので、やはりこちらからアクションを継続しないと関係は構築できないよねと再認識するばかりでした(それで悩んでいたわけでもないですが)。

僕にとって、そして内向的でコミュニケーションが苦手な人がそうであると思われるように、noteとTwitterを通して友達を作るのは至難です。ましてやYouTubeやNetflixを視聴しているだけでは、誰かとの繋がりなんてできるはずもなく。

無意識からの悲鳴

では逆に、僕は友達を作りたかったのでしょうか? そう言われればそうかもしれませんが、孤独であることや友達がいない/少ないことについて思い悩んだ記憶がありません。もしそういう気持ちを無意識下で持っていたとしても、意識には上っていなかったか、自分は平気なんだと正当化して抑圧していたのかもしれません。あるいは諦念を持っていたと言ってもいいでしょう、そういうもんだと。

それでも、タイムラインやときどき見かける記事やまとめサイトで表明される「ぼっち辛い」「友達がいない」といった苦難の言葉がなぜかよく目に入っていたのは間違いありません。無意識の働きっぷりたるや超絶有能秘書みたいなものなので、それとなく目につく言葉はもしかしたら無意識からの悲鳴の可能性もあります。

それで思い至ったのが、「たしかに自分は日常生活でほとんど誰とも交流しない状況にあるが、noteとTwitterではまあまあフォロワーがいるのにオフラインと同じような状況にあるのはなんでだ?」という疑問です。つまり、みんなはネットでも楽しそうに友達をゲームをしているのに、自分はネットでも孤独だな、ということ。

幸福度といい人間関係

いや当然、さっき書いたように、自分からアクションしないからです。でもこれも書いたように、自分からアクションなんかできるわけじゃないじゃないですか。用もないのにDMできないし、思うことがあっても自分の中で解決してリプライしないし。

世間話とか雑談とか死ぬほど苦手だからいい感じに話せるとも思わないので、そこで自分がしんどく感じる、相手にしんどく感じさせるくらいだったら1人で遊んでいるほうが気楽なんですね。そして1人で記事を書いて、承認欲求をそこそこ満たす。

コミュニケーションが苦手な人はそういう生き方を選んでもいいと思います。作品を世に公開し続ければ多かれ少なかれ社会的な繋がりが生じ続けるので、そこでコミュニケーションで得られる快楽を代替できます。僕もずっとそうしてきました。

けれども、幸せやよりよい人生について考えてみると、人間であるがゆえに社交や交友からはなかなか逃れられません。とある研究では、幸福度に寄与する要因は「いい人間関係」だそうで。それは先ほど書いた人間の生物学的性質が理由でしょう。

当たり前のことながら、コミュニケーションが苦手であることと社交性を必要としないことは同等ではありません。世の中にはコミュニケーションが苦手だけど友達がほしいと思っている人も大勢いるはず。

さらに、表向きは社交性を求めていない人でも、実は友達がいれば幸福度が高まる可能性があります。あるいは、よくよく自分の心理に迫ってみると、「孤独でも大丈夫」「友達がいなくても幸せ」と思っていても、本当は友達がほしいのにあえてその願望に気づいていないふりをすることもあります。それが本来の自分なんだと。

自分に嘘をつきがち

人間は不思議なもので、誰より自分に対して嘘をつきます。敵を騙すには味方から、味方を騙すには自分から。皆さんも、誰かに指摘されて初めて自分の中に眠る欲望を知った経験があるのではないでしょうか。

それをしっかり見つめて自覚するのは、たぶん大切なことです。もちろん辛いし苦しいに違いありません。自分の醜く浅ましい部分にも目を向けないといけないからです。ですが、「なんか違う」「なんとなく満たされない」といった茫漠とした違和感や不満は、たいてい自分でも気づいていないところに解決策があります。

僕自身、いま改めて振り返ってみたら、学生時代には友達がほしかったのを思い出しました。でもなかなか積極的に話しかけられず、引っ込み思案で、なんとかたまたま繋がったクラスメイトやゼミの同級生と話せるようになったものの……。

いろいろの体験も重なって、友達がほしいという欲望にはそれを発揮しないのためのコーティングがなされていき、「そんなこと”本当は”望んではいないんだよ」という正当化が始まります。「自分は人付き合いに興味がないだけで孤独も全然平気だよ」と周囲にアピールするために。

飲み会でスマホをいじる私

人間が恐怖したときに笑い出してしまうのはなぜか知っていますか? 自分の心を守るためだとか防衛本能だとかよく言われますが、そうではありません。「自分はこれをなんとも思わないよ、ははは」と自身の強さを表現し、他者に侮られないようにするためです。侮られるといいように利用されるからです。

これと似たような強がりの経験をした人もいるでしょう。

飲み会で周りの人が楽しそうにお喋りしている中、スマホをいじる私。あたかも「いや、お喋りとか興味ないし」という様相で。

でも、本当はお喋りしたい!

なのに、急に話しかけたらどう思われるか分からなくて怖いし、身を乗り出すのは”いままでの自分らしくなくて”恥ずかしい。だから、誰かに話しかけられるのを待つ。そうすれば”いままでの自分”=自尊心を守れるし、相手にされないという辱めを受けなくて済む。

けど、スマホをいじっている私に話しかけてくれる気のいい人なんていなくて、「飲み会なんてつまんない」「1人のほうが気楽で楽しい」と楽しそうな人たちを尻目に帰ってしまう。

つまらないのは飲み会やその場にいた人たちではなく私自身なのです。自業自得で自縄自縛の状態。書いていて辛いですが、これが続くと自分の中の当たり前になり、実際に孤独が平気になっていきます。

僕にもそれと同じことが起きていたようで、すっかり自分の欲望から目を背けてしまっていたのだと思います。

じゃあ、友達を作るにはどうしたらいいのか? オフラインは厳しい社会情勢だし、いきなり自分を変えるのはしんどすぎるから、オンラインでどうにかやるしかない。

とはいえ……noteとTwitterで無理だったのに、いまさらネットで友達を作れるのか?

そして幸甚亭へ

その実験をすべく、僕はバーチャルSNSのclusterに目をつけました。トレンドに乗って言えば、clusterはメタバースです。

バーチャルだとかメタバースだとか、このあたりの用語には異常なまでの混乱と使用者独自の定義があるため、なんとなくの理解で大丈夫です。とりあえず、メタバースはアバターを使って活動できるネット空間のことですね。バーチャルSNSもVRSNSもメタバースを言いかえただけです。僕が単にバーチャルと書くときも、基本的にはメタバースのことを指しています。

2020年の7月頃、僕は触れたこともないUnityをインストールし、ワールドを作り始めました。ワールドは3次元で表されるネット空間で、同時に入室できる人数が制限されている小さなメタバースです。clusterでは誰でもいくつでも(?)作って所有できます。

一度はめんどくさくなってやめたんですが、数週間後に再開し、なんとかワールドが1つ完成。それが幸甚亭です。

関係がフラットに始まる

で、幸甚亭は8月12日に1周年。この1年で本当にいろんなことがあって、もはや何年も昔のような気がするくらいなんですが、それくらい多くの出来事がありました。その軌跡はいくつか記事に書いたので、よかったら読んでみてください。

そして、現時点では、と注釈をいちおうつけておきますが、当初の疑問にも答えも出ました。

ネットというかバーチャルでなら友達は作れる。しかも、バーチャルは友達になる敷居がものすごく低い。なんなら、誰もが友達になりがっている。

その理由の1つはおそらく、バーチャルでは誰もがフラットに接し始められるから。もともと知っている人に対しては別ですが、基本的には誰に対しても外見、年齢、経歴などあらゆるステータスに影響を受けずに関係の最初の一歩が始まります。

コミュニケーション至上主義

それはとてもいいことのように聞こえますし、僕にとってはそうです。

しかし、これまで既存のステータスに頼って他者とコミュニケーションしてきた人にとっては、もしかしたら居心地の悪さを感じる可能性はあります。だって、誰もその人のステータスに興味がないんだもん。自分のステータスに応じてコミュニケーションしてもらおうなんていう都合のいい考えは、いまのところ(少なくとも幸甚亭では)通用しません。

また、ステータスがフラットということはコミュニケーションの影響力が相対的に強まるということです。バーチャルにはコミュニケーション至上主義的な側面がないわけではなく、そのありさまをしんどく感じる人がいるかもしれません(アバターがステータスに近い影響力を持つことはありますが)。

でも、別に無理にコミュニケーションしなくてもいいと思います。1人でバーチャルの世界に身を浸すだけでも楽しいものです。

ただし、僕はコミュニケーションしないことを望んでおらず、友達を作るために幸甚亭を始めたので、幸甚亭はそもそもコミュニケーションして友達になることを頑張ってみる場となっています。

だから、幸甚亭を指差して「コミュニケーションしたくない人の居場所がない」とか言われても、「そうですよ」としか答えられません。僕はよく言っていますが、好きなときに好きなところへ行くのがいいんです。バーチャルでは他人に迷惑をかけない限り、誰にも何も強制されません(サービス上の制限はありつつ)。

もちろん、コミュニケーションが苦手そうで、でも友達を作りたそうな人に対しては、僕もその気持ちがよく分かるのでなるべくこちらから話しかけるようにしています。

バーチャルの居場所は自分で作るしかない

ただまあ、僕がコミュニケーション至上主義だとかコミュニケーション強者だとか思われているとしたら、それはだいぶ心外です。ここまではっきり書いてきているように、コミュニケーションがずっと苦手で友達が極めて少ない人生を送ってきたわけですから。

もし僕がコミュニケーション強者で人と話すのが得意なのだとしたら、わざわざ自分で幸甚亭なんか作りません。誰かが作った人の集まるワールドに行って遊んでいます。それができないから、自分の自由が利く幸甚亭を作ったんです。

バーチャルでは誰もが自由に何でも作れます。「バーチャルに居場所がない」と感じた人がやるべきことは、自分で居場所を作ることです。「○○がない!」なんて他人の責任にして憤慨している暇があれば、UnityやBlenderを起動して手を動かしましょう(サービス上で提供されていない機能は求めましょう、ユーザー側ではどうにもなりません!)。

確かなことは、バーチャルでも「待っていたら何かが起こる」「我慢していたら察してもらえる」ということはありえないということです(「その場にいれば気にかけてもらえる」は、幸甚亭では僕が気にかけるので否定しません。たいていのワールドではそうではない気がしますが)。

もしコミュニケーションが苦手で会話するのがしんどいなら、そういう人でも安心できるワールドを作ってほしいです。そういう人が友達をほしいと思ったなら、そういう人でも友達を作れる仕組みを考えてほしいです。

僕は残念ながら、コミュニケーションなしで友達を作る方法が分かりません。だから、少なくとも幸甚亭にいるときは、来てくれた人とコミュニケーションをしたいと思っています。

だんだん僕が苛ついてきているように感じられるかもしれませんが、これはもう明らかに「コミュニケーションが苦手なことを正当化して何も自発的なアクションしなかった過去の自分」に対して苛ついています。ほんの一言、あいさつだけでもしていれば変わったかもしれないのにね。いま、Unityとアバターを手にしてやっと少し変われた気がします。

あと1つだけ。もしこれからバーチャルに入るなら、誰もあなたのことを知らないんだし、顔も姿も見えないんだから、ちょっとばかりコミュニケーションに積極的になってみて。おれもそうする。

バーチャルと出会って1年が経った

eスポーツやゲームについて書くときは、自分自身を振り返る必要もなければそれについて言及する必要もあまりありません。エッセイなどを除けばむしろ、自分のことは無視して外側にある物事を観察し、適切に分析して記述することが重要です。

バーチャルについて書くときもそうできますが、僕は自分の活動についてだけ書こうと決めました。ときどき一般化した内容を書くこともありましたが、そのテーマがなぜ自分と関係しているのかは書いたつもりです。どうしても、自分がどう生きるのかと切り離せなかったからです。

バーチャルと出会って1年経って最も変わった点がnoteの記事です。eスポーツの読者とバーチャルの読者はおそらくほぼ重なっていないと思うので、僕がいきなりバーチャルに振りきって戸惑った人も多いはず。

しょうがない、もともと書きたいことを書いていただけなんだ。eスポーツについても、僕が書いていた時期と世間的なトレンドが合致しただけです。

バーチャルは、僕にeスポーツとはまた違った意味で生き方や人生観に大きな影響を与えてくれました。これまで書いてきたように、そしてこれから書いていくように、それは僕だけでなく皆さんにとっても同じような影響をもたらしてくれるかもしれません。

バーチャルやVR、メタバースの趨勢は分かりません。世界的な大企業がメタバースに巨大な投資をし始めているようですが、はたして……? そんな潮流の中でclusterがどうなっていくのかも、予測はできますが確かなことは何も分かりません。

この1年、clusterを通して大勢の友達ができました。この関係がどう転んでいくのか、これもまた誰にもまだ想像がつかないでしょう。幸甚亭では「clusterの友達って葬式に来てくれると思う? 行く?」って話をしたこともあります。

僕はもうしばらくバーチャルの価値、特にそこでのコミュニケーションや人間関係について考えることになると思いますが、お付き合いいただけますと甚だ幸いです。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます! もしよかったらスキやフォローをよろしくお願いします。