自己表現はあつかましい

皆がめいめい勝手に自己表現している場って、一見活発なようでいて、全員が自分の言いたい事だけ言って終わりという、没コミュニケーション的な空虚と静けさがある気がして来た。ガラ空きの個人商店が乱立しているような、かなり異様な光景というか。この、noteという場について言ってるんだ。

今更だが、自己表現とは、強まった自意識の表れだと思う。日本人なら、「別に名乗るほどの者ではない」という謙遜の感覚や、拙著とか、なんか熟語がありそうだけど知らないのか言葉出てこないんだが、自分の取るに足らない意見だが(あ、私見か?)、というようなへりくだり、広い意味での恥じらいの感覚なのかな?そういうのが全然感じられず、ぶっちゃけなんか醜い。

ある人気記事で、自分の文章を駄文だなどと称するな、と語気強く主張されていた。この表現のご時世に、そんな事してたら出し抜かれてしまう、というような趣旨だった。それはその通りだと思う。俺自身、俺は天才だとか言ってるし。

でも、日本語にはあつかましいとか、いけしゃあしゃあという言葉や感覚があって、自らのさばろうとする人って、やっぱ醜く見えるんだよね。SNSとかが台頭したからといって、自分の行動を、そんなにガラリと変えてしまうべきものなんだろうか。それこそ、魂を売ってるじゃないのか。

そもそも、noteに投稿する目的って何だろう。売れたいのか、自己表現したいのか。あまり考えずに、自分が書いたものが人気が出ればいいな、というくらいの感覚が実際かもしれないが、だとしたらそれは紛れもなく、自己表現だと俺は考える。売れる事は全く別だ。売れそうな物を選んで、わざわざ仕掛けに行く。

文章っていうのは、作曲や絵を描く事と違って、直接な自己表現でありやすい。自分が思ってることをそのまま言えるわけだから。noteに投稿するのは、俺の場合、完全に自己表現である。ただ、売れる自信も、何気にあったりする。実際に売れるかは知らん。

問題なのは、自己表現ってのが、ちょっと馬鹿馬鹿しく思えて来た事だ。出たよ、俺の自己反省癖って奴か?こんな事して何になる、という奴がまたちょっと現れ始めた。

自己表現をしてるってことはすなわち、俺は自分の言いたい事をぶっ放しつつ、かつ、誰かに受け入れられたいんだ。ここんところに、なんか構造的なおかしさが予感されるんだよな。

俺がこんなに言いたい放題言ったらさ、特に俺の言い方の問題もある、さっきの人気記事の人ではないが、俺は俺で、かなり強い断定口調を披露してるから、はっきり言って、俺みたいな奴って関わりづらいんだよなw こんなに言いたい事を何でもかんでも言っちゃう事って、コミュニケーションでも何でも無いんだよ。だから俺は、プロフィールで、俺は文章で人とコミュニケーションする気は無い、と断ったんだ。俺はマシな奴なんだよ!それを自ら断って偽悪してるだけ、俺は自分に厳しいだろ?...こういう態度はウザいな。ただ、俺の傍若無人な芸風も、そういう意味合いで、ジョークにしようという意図なんだ。

主張のし合いって、美しく無いんだよ。売れるんならまだマシだ。売れる事には価値がある。でも、売れないのであれば、結局それは、ただの「自分の出しすぎ」なのではないだろうか。偉そうな事言わせてもらうが(柄にもなく断りを入れてるが)、俺はもっと美しい生き方を知ってるんだ。

ここ数日、noteを始めて、これまで10年近く言えないで居た言いたい事を、沢山ぶちまけてみた。全部では無いよ。全部を言ったわけでは無い。そこは考えて、ネタは結構小出しにしてたりする。だから似た話題が多かったりもしてる。で、ぶちまけた結果、どうだったか。まだ結果というには早いかもしれないが、一つの実感は得ている。それは、自分の言いたい事を全て言うのは間違った事なのだという実感だ。断定出来ないのだとしたら、なのではないか、と言ってもいい。

なんかこの文章を最後にnoteに投稿しなくなりそうな雰囲気出てるが、そんな事はないと思う(笑)。俺ほどの書き手が文章を書かなくなるなんて、もったいなすぎるだろ?...。

とはいえ、俺にはもっと美しい生き方が見えるんだ。それは、他人のニーズに応える事だ。売れる事である。売れる事を目指さない人生。それこそ、自己表現という形、綺麗事の、弱者の開き直りなんじゃないのか?お前は、主張するほど立派なものなのか?その程度で?これが俺の意見である。俺に主張するなら、芸術に成ってから来い。俺もそうしよう。それまでもう、何も喋るまい。


という感じで一応オチついたんで、この文章はお終い。一応言ってる事適当だから、これからも喋るよ♪全部雰囲気とノリで言ってるだけだから。真に受けんといて。珍しく自分のカラーを出さないで文章書いてみた。いや、出てたか?なら嬉しい事だ。

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