自分のために文章を書いていたはずなのに、苦しくなるのはなんでだろう?

他人が難なく読めるようにと明快に書かれた自分の文章を見返すと、とても嫌な気持ちになる。恥ずかしい気持ちになる。なんで俺はこんなことやってるんだろう、と。こんな恥ずかしい文章を書いてるところを人に見られたくない。人というのは、自分と似た価値観を持つ人。凡庸を嫌い、簡単に意味が理解できるような文章をつまらないと思う人。俺が本当に出会いたい人。そんな人がこの世に何人いるのかも知らないけど。一生のうちで出会うことはないかもしれない人々。あるいは、すでに出会っているかもしれない。そういう人にだけ向けて書いている。それを「自分のために書いている」と称しているのだが。

そういう人が見たらガッカリするような文章を俺は何度も書いたみたい。自分で見てガッカリするからね。「お前はなにをやってるんだ」と自分で思う。本意ではないものを書いていた。なんでそんなことをしていたのか。しているのか。

巷の圧力に屈してるからなのかな。わかりやすい文章が良い文章だ、みたいな。人に届く文章、とか。読まれなきゃ意味がない、とか。そういう、凡庸の象徴みたいな言説を目にして、なんだかフラストレーションを溜めてしまう。なぜ俺はそれをやり過ごすことができないのか。他人は他人、とサラリと無視していればいいじゃん。

自分に自信がないからなのだろう。自分が書いている文章に、どこか手応えのなさを感じるから。それは、読んでくれた人の直接のフィードバックにおいてというよりも、書いている自分自身の、まさにその時の感覚として。どことなく、しっくりこないものがあるような。これでいいのかな、という不安というか。

だから、健気にも、あるいは当然の試行錯誤として、文章のスタイルや執筆のアプローチをいろいろ変えてやってみているのだった。世の中で広く流布しているような考え方に対して、「やっぱり自分もそういうふうに考えるべきなのかな」と、頑なにならずに反省として軟化してみて、伝わりやすい文章を書こうと度々試みたのだった。これは見上げたことか?それとも屈服してるのか?もう、よくわからないよ。


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