車輪

俺は車輪を集めている。ささやかな趣味としてだ。すでに右手に11個、左手に22、3個の車輪を着けている。これだけあれば、なにか見るからに車輪の足りなそうな人や掟や運動を見かけたとき、その横着な為政者にーーあるいは出来損ないの王国にーー無言でこれを渡してやり、明るい未来やおしゃべりな幸せ、明朗な食事を作るのに役に立つ「無益な論理」を転がす手助けができるというものだ。車輪はいくつあっても良いのだから、貰っておいて損はない。それをくれてやろうというのだ。ああ、俺は親切だ、俺は親切だ。

***

井戸をずっと見下ろしていると、だんだんと私はそこに帰りたくなってくる。井戸の底こそが私の本当の棲み家であったように思われて、一切を投げ出して井戸に帰りたい気持ちになるのだ。そして、たいていの場合、私はいつも車輪を井戸に投げ入れることでこの「郷愁」だか「不安」だかの問題を解決しようとする。きっと井戸の住人がその車輪をなにがしかの意図や建築に利用するに違いないという淡い期待、勝手な希望を抱いてのことだ。私は間違っているかもしれない。いや、きっと間違っているのだろう。そう覚悟しておけば良いさ。しかし、正しい答えなどそもそも存在するのだろうかーー。そして、今日も私はーー


井戸に車輪を投げた。

猫に車輪をあげた。

羊にもあげた。

挙げ句、子供達が恐竜を探すとか言っていた描きかけの地図の中にも車輪をいくつか落としてやった。車輪は方々へ転がっていき、めいめいの階調や希望を地面に頼りなげにうっすらと彫りながら、やがて見えなくなった。車輪の消えた薄暗い森。迷うためにあるかのような気まぐれな小径。装飾の午後、牧歌の昼。「ブランク・トーン」のマーチ。


やがて冬が来ると、各地の「無能の倉庫」で車輪の調整も終わるので、つまり、意図してかせずしてか、荒廃した物語の片隅で足取りの持つれた不平不満や眠りのような思索が灰汁のように溜まるので、私はそれをーー、それを、どうするのだったか?拾うのだったか?それとも、私の中のそれを棄てるのだったか?もう、その区別もあいまいだ。私は混乱しているのだろうか。それとも、これが普通なのだろうか。私は迷いながらもーー車輪を拾うことにした。

***

「32機関」の車輪と、「ホロマー」の車輪を手に入れた。これで俺はようやく、壁が壊れて筒抜けになった倉庫を修理できるし、教会までの道を荷車に乗ることなく、自分の足で歩いて行けるだろう。身近な問題は片付けておきたいのだ。俺は右手と左手の車輪をいくつか入れ替えた後、それぞれの数を数えてみた。しかし、なぜか「7」の次の数字が思い出せず、計算を断念した。なので、「7」より後の、数字のわからない車輪は、なんだか不気味なので、少しずつどこかに配っていこうと思う。主人のいない思想のように、車輪はとりとめもなく錯綜するのだろうが。とりあえず、ひとつ、蟻にあげた。蟻は何匹か集まってきて、車輪を運んでいった。


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