コメント論

なんと繊細な書き手の多いことか。君たちはこの世界に割って入る巨人だと言うのに。俺はコメントに刃を仕込んだつもりはない。しかし、俺の意見というのはどうも、賛成である事の方が少ないらしい。いや、そんなのは当たり前だ。俺を誰だと思ってる?賛成できる文章を探す方が難しい。だが、考えてみれば、意見は賛成である必要は、別にない。言ってみれば、コメントする先を選ぶ必要がないのだ。俺のコメントは、俺が表現されている事が重要だ。自分が居なければ、どこにコミュニケーションがある?

我々日本人は特に、反対意見を言うのが苦手だ。それは必ずしも悪い事ではないかもしれないが、その感覚が、本音を喉につかえさせ、コミュニケーションを上辺だけのものにとどまらせてしまうところがあるのもまた、事実ではないか。これこそ、心当たりがあると言えないか。

俺はしばらくコメントしていってみる。俺のコメントはノリがおかしいし、自虐に見せかけた批判である事が多い。俺は他人に挑戦していると言える。「僕はそうは思わない」というコメントは、悪意だろうか?結局はそういう事なのかもしれない。認めてくれないのであれば、近づいてこないで欲しい、関わり合いにならないで欲しい、という事だ。

正直言って、その感覚は理解できる。そもそも俺こそ、他人が嫌いなのだ。

しかし、言葉はそんな単純な物でもあるまい?何を言うかではなく、どう言うかが重要なのではなかったか。批判にせずに反対意見を言う方法があるという予感である。自虐風批判と言ったが、自虐になっているのであれば、それは文学になっている可能性がある。違うだろうか?俺はそれを試してみたい。被害を受けた方、すみません。こんな事、今まで人生で一度もやった事がないのだ。俺のコメント手腕が芸術の域に達するところを、読者諸氏にお見せしよう。(適当)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?