丘☆
見覚えのない言葉たち……と書き出そうとして、やめた。そんなわかりやすい内容を書けば、きっと、例えばあの人やあの人などが理解を示してくれてしまうだろう。なんで俺は、いままでよりもわかりやすく書いて、一般読者なる偶像ーーなのか幻なのか、それとも良識か、あるいは臆病さなのかーーの目を気にし、へつらおうとするのか。
他人のために、つまり読者のために書くことが大切であるのだと信じてやまない良識者たちが、なんら躊躇うことなく、文章としての価値や技術の在り方を説き、それを実践し、そうして得た爽やかな人間関係や旨味のある成果を諸手に抱えてさも愉快そうな、彼らのそんな非の打ち所のない笑顔を見ると俺は「もちろん、俺だって……そんなふうに振る舞おうとしていたところだ……いまから、そうするところだ……」と飲み込まれそうになる。
それを反省だとか、丸くなっただとか、成長、成熟などと俺は自分から申告する態度を見せて他人から認められようと、そんなことをしそうになる。もう、ずっとだ。
未投稿の記事がいくつかある。それは、他人に向けて書かれたものだ。他人の琴線に触れるように、他人が共感できるように、他人が興味を持てるように、そんな話題をわざわざ選び、そんな言葉遣いで外連味ありげに語りかけるもの。そんなわざとらしい文章。俺はそれを見て、それが自分がずっと追い求めていた文章像とまさに正反対のものであることにいまさら気付き、いたたまれない気持ちになる。俺はこれまで、例えば哲学書を見たとき、原典と比べて解説本は、当然のことなのだが、明快で淀みない内容をしており、つまり、簡単な内容をしており、そこがツマラナく思えたものだった。俺個人のこんな感覚、言ってもしょうがないのだろうが。
いざ自分が文章を書く段になったとき、自分の立場を踏まえてなのか、いや、まさにそういうことなのだろう、読者のために書き、読者に理解を示してもらい、そうすることできっと初めて得られるであろう結果こそが、そればかりが物書きとしての業績であり、力量であるのだと、書き手にそう思わせるこの圧力は良識なのか。いや、それどころではなく、もっと大きな、社会の理なのかもしれない。俺が勝手に背負った他人の荷物にすぎないのだと、簡単に一方的にそう言い切れる代物とも思えないではないか。
それに反抗することで晒されるのは蔑視に違いあるまい?だから俺は嫌で、そして、それを嫌がる俺は弱いんだ。それとも、なにか、それを弱いと考えることは、内に閉ざしただけの子供じみた強がりにすぎないのだろうか。
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