ジェンダーとか普通とか

久しぶりに邦画を見た。
作品は『彼らが本気で編むときは、』。
トランスジェンダーとか同性愛とか家族とかを扱った映画で、まあまあ面白かった。

だけど観てる間、あまりにも色々な自分事が思い出されてイマイチ集中できなかった。えらい昔の記憶がわんさか蘇ってきたので、整理するために書いてみる。

まず思い出したのは、将来の理想像がカルーセル麻紀だったこと。
小学2年当時、既に二次元オタクで初恋の人はスナフキン。そんな私が初めて興味を持った芸能人が、元祖オネエタレントの彼女だった。

「この人なんて名前? すごく綺麗」
隣でテレビを見ていた母に問いかけると、母はなんとも言えない表情で私を凝視し、こう言ったのだ。
「あんた何言ってんの? この人、男だよ?」

今思えばアレは狂人を見る目だったが、当時は気にも止めなかった。
だって美しいものは美しい。
テレビの中で対談しているカルーセル麻紀はとっても艶やかで魅力的だった。女性タレントの愛らしい容姿やお淑やかな振る舞いには自分を投影できなかったが、カルーセル麻紀にはそれができたのだ。

大人になったらこんな風になりたい。
そのイメージは強烈に刷り込まれた。

とはいえ女の私がMTFになれるわけも無く、憧れは憧れのまま封印された。理想と現実は違うのだ。
それでも幸いなことに、私の身体は思春期になっても乳や尻が膨らまず子供っぽいままだった。家族への愛着が未発達なため、初潮を迎えてもそれを喜ばしいこととは思えず、自分の女性性については考えないようにしていた。

今思えば、母はそういう私を異常だと感じていたのだろう。
しばしば私を「おかしい」「普通じゃない」と言っていたが、何がどうオカシイのか、どうすれば良いのか分からず困惑していたようだ。

同様に私も困惑していた。
性自認はどうも希薄で、振る舞いも言動も振れ幅が酷い。一人称を僕にしたかったが周囲の反応でマズイらしいと気付いて止めた。その割に男にモテるのが嬉しくもある。
もちろん女の子にモテた方が100倍嬉しいのだが、チビで弱っちい私を構うのは大抵お姉さんポジションの少女らで、それは自分の萌ツボではない。

つまるところ私は、女の子を守れる強く美しい者になりたかったのだ。

・・・そうだったのか(感慨)。
いや〜、書いてみて気付くことってありますよね。
薄々分かってはいたけど、性的にも性格的にも理想と現実が掛け離れ過ぎていたんだな。どうりで人間関係が混乱するわけだ。

というわけで、齢50歳にして自分のどこがどうねじ曲がっているのかを発見した次第です。遅すぎるかもだが知らずにいるよりマシってことで。

では皆様ごきげんよう。

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