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『作品』と言う写真

キレイを撮る、感動を撮る、思い出を撮る、
これらは感情を動かす被写体を写すこと。

それをより良く切り取る
技術だったり
知識だったり
機材だったり
道具だったり

にまつわる
あれこれ。

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よく、写真ゼミで
物を撮るか、事を撮るか、という話をされることがあるのです。

1枚の写真作品を『単写真』
複数枚で一つの作品にするのを『組写真』といいます。
『物』を順番に組んでいくと、そこそこ物語や関連性が感じられることがあります。
過去に撮った単発のものを組んでも、そういうものにする事は出来ます。

ただ・・・
自分が何をどう見て、それをどう伝えたいのか
つまり、「作品」として見せようとしたとき、
過去に偶然撮れたものを統一感があるように組むのは、なかなか難しい気がします。

「ただ見たままを写している=写真」
「写真とは真実を写すもの」

デジタルになって、明るさや色味を加工できるようになりました。
「加工したものは写真じゃない」っていう愛好家の方もいらっしゃいます。

真実って何だろう

私は視力が悪いので、人と同じものを見ても眼鏡を外せば、
湯気を通したようにモンヤリしか見えなかったり
カタチを成さずに色の塊として見えることがあります。

それとは別に。
同じ物事を見聞きしても、その時のコンディションによって
ポジティブに受け止めたり、ネガティブ気味にキャッチすることだってあると思います。

じゃ、真実ってすべての人に共通の「唯一無二」なのか・・・。

そんなことを思うと、
表現としての「写真」っていうのは、
「写真を撮る」という行為のいくつかの一つなのかもしれないな、と想像するのです。
そして、絵を作品として作り出すことや、映画を作ることと似ているのかもな…と。

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そこに在るように忠実に描く細密画。
人を描くポートレート。
…キレイなものを、より美しく見せようとする手法。

その場所に実際にあったこと・誰にでも起こったことではないけど、
共感を揺り起こす心象風景。

感情の揺らぎを色で見せる映像。

撮影したままの撮って出しではなく、そういった「言いたいこと」を表現するために
・色味を強くする
・コントラストを強く(弱く)する
・明るく(暗く)する
それは必要なことなのかもしれません。

私にとって、命ってどんな形?

手に取れるもの、目に見えるものなら写し取ることもできます。
画面配置を考えて、瞬間を写し取って、それを自分がどう見ているか加工することが出来る。

でも、物がない「コト」はどう写したらいいのか。

命や想いやカタチのないそれらを
どう見て、どう写すか。
それを考えると見えるものも、どう見て写すか…も、考え始まってきます。

「作品という写真」=作者のこたえ

まだまだ手探りは始まったばかりです。


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