親友との七日間戦記
このようなご時世だが親友が遥々我がアパートへ泊まりに来てくれた。滞在は7日、長いようであっという間だった。
その子はクリスチャンで、イエスキリストをとても敬愛していた。
私は一応仏教だけど、正直気にしたことはなく、意識的には無宗教なのかもしれない。
その子と過ごす中で大変だったのは唯一その信仰の違いだったが、幸い彼女も多方面の意見を取り入れようとする寛大な心の持ち主で、だからこそ7日もずっといれたのだと思う。
生活の中で信仰の違いで解釈する言葉の意味やこの行動など、近くで暮らしてまた新たな一面を見つけることができた。親友とはもう10年以上の友達だが、とでも新鮮な事だった。
最後の晩餐の絵に対する解釈の違い、神に対する想い、生まれ変わりや死についての文化的違い、学ぶことはとてもたくさんあった。信仰の話はあまり好きではないし、だから多くの言葉が見当たらないけれど、一つ強いて感じた事はそれを押し付けるような事は決して上手くないということだ。正しいと押さえつけようとしたり、違うからと差別的な事をするから争いが生まれる。戦争と似ているかもしれない。なのに神様に祈る。矛盾しているな、と。
依存は自分を見失う。私も気をつけてなければいけない。
まずは、己と向き合わなければ、知らなければ、見当違いも甚だしい願いが生まれてしまう。
祈る事で得られる心安らぎについては得られるかもしれないが、長くは継続しないだろう。麻薬のソレと同じだ。
神にいわれたから、示しがあったからと、しかし己はどう思うのか、彼女の言葉からはいつも主観が感じられなくて、私は彼女の口から他人の話のような物語を聴き続けた。あまりにも強い信仰心のため、きっとわたしのことばは届かないだろうと(そのような確信をえるような時があった)思い、私はただあたたかくみまもった。
正しいかどうかはわからない。でも、確実に彼女は人に疲れ果てていて、涙もすぐこぼすほどだった。
私の今回の役割は、半分くらいは果たせられたら良いなと思っている。
皆んな一生懸命生きてる。それだけで偉い。シンプルにそう思う。それ以上求めたい時は、英気を養ってからで良い。私も彼女も、良い学びとなった7日間であった。
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