証明写真

どうして、「顔写真」じゃなくて「証明写真」っていうんだろう、と、不思議に思ってきた。

エントリーシートに写真を添付しようとパソコンを操作していたら、後ろから妹に声をかけられた。
「その顔にするの?今のお姉ちゃんの顔の方がいいのに。今の方がいい顔してる。」

少し驚いた。

撮るタイミングが違うだけで、自分の顔は自分の顔。
そこに、「どちらがいい」という尺度があるんだ、と。
私を他人と識別する分には、この顔写真でなんの不足もない。

それでも、その違いが気になって___そして、どこかその違いが大切なことのような気がして___妹からのアドバイスをきくことにした。

「目の高さを合わせてください」

いつもの、中学生以来変わらない系統の服ではなく、「リクルートスーツ」という名の、画一的な黒と白に身をつつむ。
大学生になって覚えたお化粧をして、バイト以外ではしないポニーテール。
自分だけど、自分じゃないような、そんな違和感を感じながら、証明写真の撮り直しに向かった。

証明写真機の丸椅子に座って、見慣れた自分の顔を見ながら、「目の高さを合わせてください」の指示に従い、瞳の位置を合わせる。

目の高さって合わせない方がよくないか…色んな高さから見た方が、おもしろいのに…。
わかってる、写真を撮る都合上、目の高さを合わせる必要があることくらい。
でも…。

そう思った時、「今の顔の方がいい」と妹が言ってくれたことの意味が、「証明写真」がどうして「顔写真」じゃないのか、その意味が、わかったような気がした。

顔には、瞳には、その人‘’らしさ”が出るんだな、その人の‘’歴史”が滲むんだなってこと。

同じような服、同じような髪型、同じような背景に、規格に沿った縮尺の写真。

唯一違うのは、写っている人。
ひとりひとり、それぞれの感情をもって、それぞれの人生を生きてきた。
それは、‘’マナー”や‘’常識”、‘’規格”という類のもので型にはめられるものじゃないと思うし、型にはめていいものでもないと思う。

だから、「‘’証明”写真」。

私は、この瞳で、この顔で、私として私の人生を生きてきました。

この写真を撮るまでに、いろんなことがあって、いろんな人に会って、いろんな感情を知って、そういうの全部まとめて受け入れて、今の自分です。

その他大勢の中のひとりだとは自覚していますが、この社会の片隅で、私は、私になりました、私にしかなれなかったけど、私はこれからも、私で生きていたいです。

だから、この写真は、私の‘’存在証明”です。

そういうことを、この写真を見る誰かに伝えるためにあるものが、‘’証明写真”なんだろうな。

前に撮った顔より、今の顔の方がいい、これから何枚、どんな写真を撮ることになっても、その度に、そう思ってもらえる自分でいたい。

そして、いつ撮った写真も___どんな顔の自分も___等しく受け入れて、あわよくば「いい表情でしょ〜?」って誇れる自分でありたい。











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