「優しい」は、特に言語化しなくても良いのかもしれない。
「優しい」って何だろう。
「優しさ」は「強さ」って思ってたけど、断言できるほど「強ければ優しい」とも言えないし、「優しさ」は「私への興味や感心」って思うときもあるけど、それがかえって煩わしくて嬉しくないときもある。触れてくれないことの方を「優しい」と感じることもある。うん。けっこうある。
いつも仲良くさせていただいている、おばはんさんが、こういうnoteをあげていたので、考えてみた。「優しさ」について。
こういう考察を始めたとき「ま、人それぞれだしね。場合によるよね。」って着地になりやすいけど、それはイヤなので、だいたい、いつも頑張って模索する。
だけど。
これは、いいかな。直感でわかるし。言語化しなくても良いことだってあるんじゃないだろうか。
ってところに、やはり着地しそう。(あれ?)
でも、もう少し掘り下げてみる。
最近「優しい」っていう言葉は、あまり使っていない気がする。特に大人に対して。
どんなとき「優しい」って言っただろう。
子どもが、自分が全部食べたいであろうお菓子を半分くれたり、自分が先にやりたいゲームを友達に譲ったのを見たときには、心から「優しいね」って言ったことがある。
「純粋な自己犠牲」を感じたときかもしれない。
まぁ、大人に「優しい」と思えないのは、「純粋」だと言い切れないからかなぁ。
あと、「優しい」とは違う、何かそれよりふさわしい言葉を当てているから、「優しい」は言っていないようにも思う。どこででも使えそうな言葉すぎて、なんだかうそくさく感じる気もする。
案外「優しい」の使いどころって、少ないのかもしれない。
それが、今日の「優しい」に対する結論となりました。
いつも読んでいただきありがとうございます。