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稔 第2回|30年前の借りは返したぜ。

中学校は日大系の私立に行った。兄が通っていたというのも理由だが、私には小学校の時に今一歩?届かなかった、ヒーローになりたいという願望があったので親に言った。

「自分のことを周囲が知らない世界(学校)に飛び込みたい」

しかし、自分のことを周囲が知らない所へ行ったからといっていきなりヒーローになれる訳ではない。自分から私立の学校を望んで行ったのだが、新しい環境や友達になじめなかった。今思えば、地元の友達を捨てるぐらいの覚悟が必要だったのに、それがなかったために新しい自分に生まれ変わることができなかったのだろう。結局、私立中学に入ったものの、小学校時代の延長で、地元中学に入った友達と一緒に区の野球大会を目指して土日に野球の練習することを楽しみにしていた。一応、大会で活躍することが中学の目標だ。

中学校に入って初めての大会は、1回戦に勝ち2回戦に駒を進めた。私のポジションはレフトだ。野球で内野エラーは打者を1塁に生かすだけの短打で済むが、外野のエラーや後逸は致命的である。ホームランもしくは2塁打、3塁打となって試合を決定づける場合が多い。2回戦、1点リードで迎えた最終回の守り、1塁と2塁に走者がいる。「カキ-ン」といい音がして打球がレフト方向へ飛んでくる。私は打球に向かって走る、走る。軟式野球だが、バットの真芯に当たった打球は外野へ到達しても100km以上はあると思う。走る、打球が落ちてくる、逆シングルでグローブを差し出すーー。

しかし、打球はグローブの先端をかすめて後方に転がっていった。走っても追いつけないくらいのスピードでボールは遠ざかる。この草野球のグラウンドは2試合同時に行える長方形だった。ライト方向は短辺であるがレフト方向は長辺、つまりレフトの後方は広く空いている。外野が後逸した場合、落下地点によってホームランまたは3塁打といった大会ルールがあったと思うが、取れば勝ち、取れなければ負けという状況である。ボールを取り逃した私は、球際の執念というか、本当は取れたのではないか、あと数センチグローブを素早く差し出せばなどと思いながら立ちすくんだ。後悔あとに立たず。

「くやしい……」

世話役の大人の方やコーチの言葉も「惜しかった」「もう少しだった」「取れば絵になった」などなど……。そういえば「あれは無理だ」「取れなくて当然だ」という言葉はあったかなあ?

この時のリベンジをする機会が、それから30年後に訪れた。我が子のPTAの学校対抗ソフトボール大会である。足立区立新田小学校は、毎年出れば負けという状況が3年くらい続いていた。私も入部3年目を向かえ、監督兼キャプテン兼レフトの重責を担っていた。なんとしても今年は1勝したい。

まず、ピッチャーの人選で勝負に出た。セオリーに倣えば、いつも練習でバッテイングピッチャーをやってもらっているベテランのEさんを指名すべきだが、Eさんの球は程よいスピードでタイミングが合いやすく、簡単に言うと打ちやすいのではと日頃から思っていた。そこで心を鬼にして、山なりのゆっくりした投球であるが、打ちにくいSさんにお願いした。Eさんの心中を思うと胸が痛む。十数年経った今でも、どうせPTAの親睦なのだからピッチャーはEさんでよかったんじゃないかと思い出し自問することもある。

試合は僅差で進んでいき、場面は満塁の走者で最終回。またしても打球は私のいるレフトを襲った。30年前と同じだ。

「カキーン」という良い当たりの大飛球がレフトセンター間を襲った。私は横にバックに走る、走る、そして、落下地点付近で横上方にジャンプーー。

打球はグローブに入った。やったー。「アウト!」という審判の声がグラウンドに響く。

取った地点はホームランライン(グラウンドに書かれた白線)ぎりぎりであった。取れなければ、打球はラインを超えてホームランとなっていたはずだ。

なんとか追いつきボールをキャッチしたあと、私は勢い余ってホームランラインを乗り越え、朝礼台に激突。大会に備えて朝礼台に保護スポンジを巻いてあったので怪我はなかった。

外野からチームのベンチに帰ると、チームメイトから握手を求められた。観客席のPTAのお母さん方からは嵐のような拍手。試合は私たち新田小学校の3年ぶりの勝利で終わった。

「30年前の借りは返したぜ」と、私は心の中でつぶやいた。

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1955年生まれの父・稔が半生を振り返って綴り、娘の私が編集して公開していくエッセイです。執筆時期は2013年、57歳でした。

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