見出し画像

オタクはフェミニストを攻撃するのをやめませんか?(お気持ち)

フェミニスト団体に大量のデリバリーを送り付けたり、周囲をうろついたり、恫喝したり脅迫したりの嫌がらせを続けても、分が悪くなるのはオタクの方です。

フェミニストを攻撃すればするほど、世論がフェミニスト側へ傾きます。

誰がいつどんな状況であっても、犯罪に抵触するような嫌がらせをする方に味方してくれる人はいません。

いくら「萌え絵が犯罪へつながる明確なデータはない、癒されるデータならある!」とオタクたちが主張しても、逆に「犯罪者はなにがしかのポルノコンテンツを見て影響を受けている」と話したり書籍を発行したりするルポライターや社会学者もいるわけです。

そうして人は肩書に弱くて、肩書のある方の言い分を信じます。分の悪いことにそういう事を話す人が、大学でそういう講義したりもしています。

オタクからの定番攻撃「フェミは空想と現実の区別がついていない」という定型文にしても、間違っています。ちゃんとついています。

もちろんマスコミがオタクは空想と現実の区別がついていないと言ったとしても、それも間違っていることはオタクなら誰でもがわかることです。

多くの人は、空想と現実の区別をつけたまま、創作物にふれ、そして感情を揺さぶられます。

良い気持ちになったり、悲しくなったり、欲情したり、不快になったりします。

この感情の揺さぶられを「空想と現実の区別がつかない」と定義づけるなら、人類のほぼすべてが「空想と現実の区別がつかない」事になってしまいます。

自分たちがいくら譲歩してもあいつらは難癖をつけてくる!絶対に自分たちは悪くない!戦うしかない!殺すしかない!と息巻くけれども、それは良いやり方なのでしょうか?

いくら譲歩、の譲歩とはなんでしょうか?具体的に何を譲歩した事があるのでしょうか?しかしコンテンツの削除はいくつもありました。

フェミは何にでも難癖をつけるのでしょうか?

宇崎ちゃん事件のとき、第二弾のファイルは拍手を持って賞賛されたのを覚えているでしょう。

あのとき、戸惑っていたのはオタク側だけです。そしてフェミ側は、「本当に全く悪くないし、献血に行きたくなるような良いものだと思ったから、賛辞を述べている」と何度も言っていたはずです。そこに「屈させてやった!」という喜びがあったのかなかったかそれはわかりませんが、もし「屈させて萌え絵の起用そのものをつぶしたい」のなら、第二弾の絵にもクレームはついたはずです。

でも、つきませんでした。

ここが、境界線なのです。

本来のコンテンツから出て、多くの人にそれを届けるとき、オタクはそこを目指すべきなのです。

この第一弾と第二弾の違いが、本当にわからない人もいると思います。よく作者さんも「何も違わない」と言っていた!と返す人がいますが、確かに宇崎ちゃんの胸の大きさも、塗り方にも相違はありませんでした。

しかし明確な相違はあったのです。

ひとつ前の記事に書きましたが、「多くの人が不快に思う事のないような表現をする」と言うのは、この萌え絵のみならず、創作にかかわるあらゆる人が注意を払っているものです。

フェミに屈するのではなくて、そうしなければ企画やコンテンツそのものが潰されてしまうからです。

ひぐらしのなく頃に卒業では、残虐なシーンには黒丸が乗っていました。

それと同じです。

それなのに、なぜ、消費し享受する側だけのオタクが、声を荒げて一歩も引かぬ、許さぬ、といきり猛っているのでしょうか。そうやって暴れ馬のように屁理屈をこねてフェミニストを攻撃しても、分が悪くなるだけだとなぜわからないのでしょうか。

清濁併せ飲もうとしないのは、フェミもオタクも同じです。

濁を飲めないフェミと、清を飲めないオタク。

アニメや漫画は確かに世界的コンテンツです。それを楽しみ愛する人がたくさんいる。そして確かにその世界的に有名な作品にさえ、女性蔑視の視点があるだの、主要キャラがつねにビキニなのが嫌だの難癖はつけられています。でも、コンテンツの変更や削除はありません。それらが行き過ぎた難癖であることが明白だからです。

漫画だけでなく、あるアーティストのワールドツアーでは女性の足をモチーフにした装飾が性的だと撤去されました。ビキニどころか、足でもだめだと感じる人たちがいるのです。

俺たちは日本人だ、日本だから大丈夫だ!と思っていても、そういった政治的に正しいとされること…ポリコレ波は確実にじわじわと日本に入ってきます。実際に国連からもエロ絵を規制、犯罪化するようにとの圧力もかかっています。

どれだけオタクが全裸リボンの女の子の絵を芸術だと言っていても、それらを多くの人が簡単に目にできるような状況を誇らしく思っている限り、やがて日本そのものが巨大な圧力に押しつぶされてしまうときが来るでしょう。

夜道を歩く女性や電車に乗る女性に、自衛自衛と声高にさけぶくせに、自分たちは自衛せず、堂々とスカートを股間に吸い込ませた絵や裸リボンの絵をさらけ出しています。

常々不思議なのは、エロスのエッセンスを含ませたイラストも、そうでないイラストも、公園の裸婦像も同じだと言い切る人たちです。彼らには、創作物を受け取り味わう味覚が崩壊しているのかと疑問に思わずにはいられません。

もしこれらのものが全て一緒くたなら、逆にアートとはなんぞやと問いたくなります。サザエさんの水着で抜けるのかと聞きたくなります。(まあ進研ゼミのコラショで抜ける人もいるので、全くいないわけではないと思いますが)

オタクの「絵のTPO」という自衛は必要ないのでしょうか?

そしていくらフェミニストが頭のおかしいヒステリーを喚き散らしていても、その人たちに嫌がらせをしたって分が悪くなるだけで、フェミ側がますますオタクへの憎悪を募らせていくだけだとわからないのでしょうか?

おっぱいがぶるんぶるんしてても、スカートが股間に吸い込まれていても、つやつやローションヌルヌルの、エロ絵があってもいいんです。

しかしそれらをたくさんの人に見せて、不快に感じさせること、不安を抱かせること、活動団体に嫌がらせをすること、そういった行為がオタクの未来に光をもたらすことだとは、私にはどうしても思えないのです。

女性は弱いものという認識で世界ができており、そしてフェミニストは女性は弱くないのだといいつつ、弱さのイメージを利用し世間と男性に甘え、さらに世間からの庇護も集まりやすいです。そこに嫌がらせをしているのがオタクたちです。その嫌がらせをほめたたえるのはオタクだけです。

(ちなみに私本人は自分がどうしてもできないことや達成が困難なことは男性に助けてもらってそのお礼をしたり、男性が苦手で自分ができることは代わりにそれをしたいと思っている、というような価値観で生きています)

確かに規制が厳しくなって、戦乱カグラのプロデューサーは退社しました。デッドオアアライブのカスミはエロエロくのいちから「男を喜ばせない」戦士になってしまいました。(まあそれでも充分エロエロですが)

それをどれだけ嘆いても、そうしなければコンテンツ自体が生き残れない。

今、どうしたって、そんな世の中なのです。

仮に、とても偉い人が「萌え絵には人を癒す効果がある!エロコンテンツの豊富な日本は性犯罪がとても少ない!しかもエロコンテンツを見てれば見てるほど、犯罪者的思考とはかけ離れた行動をする!」などと「完全なエビデンス」を発表したとしましょう。それでも負けると思います。

もっと大多数の「とても偉い人」が単純に萌え絵を嫌悪しているからです。実際の性犯罪や集団レイプやらが多発していても、日本のコンテンツを良い意味に結び付けて考えてはくれないでしょう。それが多くの人が「政治的に正しいと感じてしまうゆるふわ感覚」だからです。

どれだけデータを、証拠をと叫んでも、人は感情の生き物です。感情に支配されて生きているのです。彼女らが「データより目の前の人間を見ろ」と叫び、そちらを大切にするのはそういう理由です。

人はサイコパスなどごく一部を除き、遺伝子の乗り物ならぬお気持ちの乗り物なのです。オタクだって同じです。それをオタクは認めなくてはなりません。

さて、前述の「とても偉い人」は偉い位置にとどまるために、下級国民からの支持が必要です。また、大きな経済効果があることも明白なので、あまりに派手に萌え生かさず、萌え殺さずの程度で、私たち下級国民は生かされているだけなのです。

下級国民たちは世間の流行に流されます。フェミ側が「世界を自分の思い通りにできないとブチ切れて自分のトラウマを世間に巻き散らかしている迷惑な存在」であるのが本当でも、オタクが攻撃性を高めると流動層が「あっち」へ流れてしまいます。

そんな世界に、いくら可愛くても私たちを癒してくれても、淫紋裸リボンやスカートの上から股間の陰が描きこまれている女の子で、どうやって立ち向かえばいいのでしょうか。

その女の子や、イラストレーターさんは何も悪くありません。ですが、それらを利用する私たちは、そのカードで世界をひっくり返すことができるのでしょうか。これは、あまりに分の悪いカードではないでしょうか。

ポリコレの波が押し寄せる世界の中で、どう共存していくか、どう隙間をぬって創作ができるのかを、オタクみんなが考えなくはならないと思っています。