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家族の応援

先日働いている介護施設で利用者さんをお迎えに行った時に、娘さんが「楽しんできてね」と声を掛けていた。

何の事はない普通の光景に見えるけど、その声には、ほんとに楽しんできて欲しいという想いが籠もっていた。

わたしはサイキックではないけれど、言葉の背後にある響きが聞こえる。

「いってらっしゃーい」の背後に言ってるその人の罪悪感が見えたり、安堵のため息が聞こえたり、ほくそ笑む顔が付いてきたりする。

わたしが感じるぐらいだから、送り出される本人も分かっているのじゃないかと思う。

うちは住宅型でもあるから、通所の人や、併設している住宅から歩いて来る人も居る。
だから、顔の見える家族もいれば、全く分からない家族もいる。

自分の父や母を介護施設に預ける事を世間に知られないようにしている家族がいる。
写真を撮るもNGの家族もいる。

一人の人にそれぞれのストーリーがあり、深い事情がある家族もいることだろう。

でも、敢えて言うけど、残り少ない時間を生きている人達の今にフォーカスを合わせてもらいたい。

それは老人となった父や母を抱える家族も軽やかに生きていける秘訣の一つでもあると思う。

なんでそんな事が言えるのか知りたい方は個人セッションしてますから、コメントしてください。(有料ですけど)

足元も覚束なくなり、何を仕出かすか分からない年老いた家族の面倒を見るのは精神的にも肉体的にも、本当に大変な事だ。

だから、ジジババが安心して過ごせる場所に出掛けているならその間リフレッシュしてほしいし、ほっとして欲しい。

「お母さん楽しんで来て、わたしも楽しむから」でいいと思う。
そこに罪悪感はいらないのよ。

厄介払いの気持ちで送り出せばその波動がつき纏って楽しめるものも楽しめない。
そんなこと言ったって、居ない間にやらなきゃならない事、山ほどあるんだから!
きっとそういう事もある。

言葉には想いが宿る。言霊(ことだま)という。

どうか、軽やかに「一日楽しんできてね〜」と応援📣してほしい。
その言霊はきっと言った本人にもいたわりをもたらしてくれる筈。

施設では毎月、毎日、何らかのイベントがある。
毎日のレクレーションだったり、ワークショップだったり、外食もあるし、映画鑑賞だったり。

月が変わると、どんなイベントがあって、どんなだったか、リーフレットやチラシを作って思い出して貰えるようにしている。

利用者さん同士でどこに自分が写っていたのか嬉しそうに話しているのを聞くと、写真ていいなと単純に思ってしまう。

本人が写真を拒否しているなら仕方のないことだけれど、家族が写真は🆖となると少し悲しい。

結構大きな楽しみの一つを奪っているような気がしてならない。
そこにも深い事情があるのかもしれないけど…

子供のように無邪気にカメラ目線をくれたり、ポーズを取ってくれたりするから、
後で見るのはきっと凄く楽しみにしているんだと思う。

思い出すという作業は脳にいいらしい。
ましてや嬉しい記憶なら尚更。

何処にも写っていない自分を探すのはちょっと寂し悲しだね。

わたしの母は51歳で亡くなった。
わたしは母の入院中1枚も写真を撮らなかった。
本当は2人で写真を撮りたかった。
でも、命の期限を切られてしまっていることを母に悟られてしまいそうで怖かった。
母は写真が好きだったから、わたしは楽しみを奪ったんだろうと思う。
今思えば母はちゃんと自分の事を分かっていた気がするし、わたしが撮ろうと言えば、少しくお化粧などをして、ポーズを取ったかもしれない。

ごめんね母。

話がそれてしまった。

あなたのお父さんやお母さんはこの先どれだけ喜びを感じるか、が生きる事なんじゃないかと思う。

何が出来る?いろいろ出来る。
その一つが楽しむ事を応援することじゃないのかな。

複雑な事情はあるかもしれないが、やることはとてもシンプルな訳だよ。

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