私の芝は青い

「何物も貫く矛と何物も防ぐ盾って言われても、なんか実感って言うの? 湧かないんだよね」
四時間目の授業終了後の昼休み、特定のグループで集まって談笑しながら昼食を済ませるのは、誰もが一度は経験することだろう。もちろん、中には一人でマイペースに過ごすことが好きな者もいるが、少なくとも私は、特定の数人で集まって他愛のない話をしながら昼食を済ませる人間だ。
私たちの通うH大学中学部は、小学部から大学部まで一貫の私立で、給食がなく、生徒はお弁当を持参するか、食堂や購買を利用することになっている。もちろん、お弁当ではなく、登校途中に昼食やおやつを調達する人だっている。もっとも、これらは高等部に通う兄を持つ友人から聞いた話で、小中学生が学校に金銭を持参することを良しとしない保護者は多いのか、食堂や購買を利用する同級生を見たことはない。
この日も、四時間目終了後、私たちは荷物を持ってチカの席に集まる。名もなきウサギのキャラクターが描かれたバンダナを解こうとするも、母は今日もきつく結び過ぎており、無理やり力を入れると爪が折れてしまいそうだ。中学部からこの学校に通う私にとって、学校では給食を、みんなと同じものを食べることが当たり前だった。自由な昼食になって半年が経つが、未だにお弁当を広げる瞬間は心が躍る。遠足や運動会の時にしか食べられないという特別感に、ワクワクとしながらお弁当箱を開けると中では、夕食の残りのきんぴらごぼうが卵に包まれ、新鮮なミニトマトの隣で居心地悪そうに萎んでいる。
そんな昼食を口に運んでいると、ユリカが唐突に話し出す。先程の古典の授業内容だ。ユリカが終わった授業の話をするのはいつものことだ。
「え、分かりやすかったと思うけど」
「や、分かるよ。矛盾って言葉も使うっちゃ使うし。で、故事成語も分かるんだけど、普段の生活で盾と矛を使う機会なんて無いじゃん?」
「あるなら逆に教えてくれ」
矛盾している場面に遭遇することはあっても、文字通り、矛と盾の対決を見ることは、きっと私たちの人生では無いだろう。
現在使われている言葉がどのようにして生まれたのか、というエピソードとともに、言葉の意味を理解させる授業なのだ。私たちは、矛盾という言葉の意味さえ理解できていればいい。真面目な割にいつも話の筋が逸れていくユリカの主張を、やはりいつものように軽く受け流していると、硬いベーコンエピをやっと飲み下せたチカが切り出した。
「矛盾で思い出したけど、この前エリーゼでめちゃくちゃ面白いことあったんだけど、聞いてくれない?」
「面白いこと? エリーゼで?」
エリーゼとは、小中等部の最寄り駅前にあるカフェスペース併設のベーカリーショップだ。元々はパンの持ち帰り専門だったが、昨今のカフェブームに乗じてか否か、昨年からイートインスペースも兼ねたカフェが併設された。
チカはその近所に住んでおり、物心ついた頃からの常連だという。カフェスペースが併設されるようになってからはそこで勉強することがあるらしく、以前、私とユリカも同行したのだが、ハニートーストが私のお気に入りだ。きっと、今チカが食べているベーコンエピも、エリーゼのものだ。
静かな店内で、一体どんな面白いことが起こったというのだろうか。すでに顔を歪ませ、笑い出すのを堪えているといった様子のチカに、つい前のめりになってしまう。
「何があったよ?」
「想像してください。アナタは静かなカフェの店員さんです」
「はい、私は店員サン」
「ちょ、棒読みやめて笑う」
私はエリーゼ店内を思い浮かべ、シックな黒のエプロンを身に纏う。甘いパンの香りと紅茶の香りが鼻腔をつき、唾液が出た。週末、母と訪ねてハニートーストを買ってもらおうと、また心が躍る。
「アイスコーヒーのホット一つって言われたら、何出す?」
口内に溢れた唾液を、危うく垂らしてしまいそうになった。
「ん?」
「は? え? 何、アイスコーヒーのホット? どっち?」
ホットは温かい、アイスは冷たい。この対極にいる二つが共存することは不可能だということは、即座に理解することができた。しかし、チカの放った言葉を理解することができず、唾液の代わりに間の抜けた声を出した。
困惑する私たちの様子を見て、チカがクスクスと笑い出す。大笑いするのを抑えて話し続けようとしているために、顔を赤くし、鼻の穴を膨らませている。
「だよね、そうなるよね。一昨日さ、ラスク食べながら本読んでたら、ツーブロ七三で銀縁眼鏡でジャケット着てグッチのクラッチバッグ持ってる二十五、六歳くらいだと思われる男の人が入ってきたの。カランコロンって。全身ブランド! って感じで、なんか面白かったから本読むふりして観察してたんだけど、真っ先にカフェスペースで席確保して、ノートパソコン開いて、仕事の準備できたから注文するか! って感じ。そこまでは、私も勉強する時とかにやるし、お仕事するのかな、くらいに思ってたんだ。で、その後よ」
「アイスコーヒーのホット一つ」
「そ。スマホだけ持って、そのスマホケースはヴィトンだったわ、それ持ってパン選んでレジに行って、めっちゃドヤってアイスコーヒーのホット一つ。ブラックシュガーもね」
大人の男性を真似たのか、声を低くし、悪意の篭った表情でニヤリと笑いながらチカが言う。その滑稽な仕草についに耐えきれなくなった私たちは、同時に吹き出した。
「やば」
「ちょ、無理」
「やばくない?」
「やばすぎる」
「ダサすぎ」
「それ。めちゃくちゃダサいの。ブラックシュガーって何? 黒糖ならブラウンシュガーだし、エリーゼの砂糖とミルクはセルフだっつうの」
大笑いする私たちに、何の話をしているんだ、という好奇の視線は感じられたが、わざわざ吹聴する必要も感じられず、その視線は無視して笑い続ける。
「すっげえダセえの。マスターと増田さんがレジにいたんだけど、増田さんはスティックシュガー補充のふりして後ろ向いてクスクスしてた。マスター、裏切られてめちゃくちゃ困惑してたよ。絶対に笑ってはいけないパン屋さん二十四時」
「ぶっは!」
「増田、アウトー」
「ちょ、やめて、お腹痛い」
ユリカがひいひいと涙を浮かべて笑っている。
増田さんは、エリーゼでアルバイトをする大学生だ。人懐っこい笑顔で、私とユリカのカフェデビューを優しく見守ってくれた、ショートカットが似合う憧れのお姉ちゃん、という感じだ。ハニートーストを勧めてくれたのも、増田さんだ。
マスターは、エリーゼの店長の夫だ。還暦を目前にして脱サラし、カフェメニューを担当していることで、チカが勝手にマスターと呼び始めたらしい。パンを焼くことの無いマスターはグレーヘアのオールバックで口ひげを蓄え、コーヒーを挽く姿はダンディそのもので、きっと、大人の色気、と言われるものが漂っている。おじさん、と言うより、おじ様、という表現がしっくりくる。
いつもは落ち着いているマスターが困惑し、明るく丁寧な接客の増田さんが背を向けて笑う光景を思い浮かべ、その異様さに、改めて温かいアイスコーヒーの威力を思い知らされる。その瞬間、店内ではいつものように店長が好きなクラシック音楽が流されていただろう。普段は優雅に、パンとコーヒーの香りとともに運ばれてくるそれが、喜劇のためのBGMとなってしまったことに間違いない。

「はあ、笑った笑った。もうさ、全身ブランド物で装ってる割には詰めが甘いと言うか」
「多分、無理してブランド物を身につけてるんだろうね」
チカが、くるみパンを一口分ちぎり取りながら言った。ベーコンエピは歪な形となり、ポリ袋へ戻されていた。
「服に着られているってやつ?」
「うん、そんな感じだったかな。なんか、僕はブランド物が買えるんです、凄いでしょ? って、必死になって自己アピールしてる感が凄くて、こいつ、社会人デビューだなって思ったよ。デビューできてないけど」
ユリカが烏龍茶を少し吹き出し、ごめんごめん、と震える声で謝りながら慌てて拭いている。
「身の丈にあったことしとけよって感じな」
「それ。中学生なのにコーチの財布使ってんじゃねえよって、みんなが思ってるのと同じ」
「ああ」
私たち三人は、一斉にヒロミに視線を向ける。
父が一代で築いた会社の社長だか重役だかで、とにかくお金持ちのオジョウサマだ。しかし、あくまで私たちのように、一般企業に務めるサラリーマンの父を持つ中間層と比べて、の話であって、特別レッスンだとか、英才教育を受けた生粋の御令嬢、というわけではない。成り上がり似非セレブ。家政婦の作ったローストビーフを摘もうとする交え箸に、その魂が見え隠れして痛々しくなる。
身の程を弁えた振る舞いこそ、美しさの黄金比。人によって生まれた家庭も、顔や体の創りも、生きてきたプロセスも違う。高級ブランドが悪いとは言わないが、果たしてそれは、所有者を豊かにすることが出来る代物なのだろうか。
きっと私は、ヒロミと同じシャネルのスカーフで包まれた、高級お取り寄せ食品だらけのお弁当より、このくたびれて色褪せたウサギが大切に抱きしめている、母お手製のお弁当を食べている方が心も体も満たされ、豊かになる。ユリカのタコさんウィンナーも、チカのベーコンエピも、彼女らの豊かさの象徴、美しさの黄金比だ。
大理石の上で背伸びばかりをしていては、脚の至る所が痛くなる上に不安定で直ぐに疲れる。バランスを崩して無様に転んでも、硬くて冷たい大理石は、優しく受け止めてはくれない。両足の裏全体で青い芝の上に立てば、足の裏が少しくらい痒くても、それさえも心地良く感じてしまう。
「はあ、笑いすぎて疲れた。カルピスが飲みたいよお」
「あたし、三ツ矢サイダー」
そう笑い合う二人の足元も、きっと豊かな青い芝。
いつか、ホットのアイスコーヒーを頼んだ男やヒロミの足元が、生命力の溢れる青々とした芝生で埋め尽くされることを楽しみにしている。
そこで飲むコーヒーは、熱くても冷たくても美味しいはずだ。

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