赤が黒だと気づいた日~不変と思われた絶対音感への過信~

耳の異変

 10年以上ほぼ楽器をやっていなかったような状態から、最近急にいろいろなところでサックスを吹き始め、不思議に感じていた。皆、なんで音が高いのだろう、と。
 ジャムセッションに参加したとき、わざわざ調を半音分上げて吹いていた。楽譜やコードと違うのになあと思いつつ、ジャズはクラシックより音を高めにとるルールでもあるのかな、ギターやベースのような弦楽器は高めなのかも?オーケストラの音もちょっと高めに聞こえるし、などと思っていた。
 以前から数ヶ月に1回のスローペースで習っていたクラシック寄りのサックスの先生に話をしたら、首をかしげていた。そのレッスンで先生が弾くピアノの音も高かった。まあピアノにはよくある話、ステージ上のグランドピアノも温度の上昇のせいなのか調律のせいか音が高いと感じることが多かったなあ、などとぼんやり思っていた。にしても高すぎ?先生が間違えて弾いているのかな、などと思った。
 そして今日、新しく習い始めたジャズの先生に言われた。「音、ちがうよね」と。ふと気がついて驚いた。先生も私もアルトサックスを吹いていて、先生が出す音と同じ音が出ているにもかかわらず、押さえている指がちがう。
 え、、まさか私、アルトサックスの運指間違えて覚えていた、、?と思ったけれど、指自体は間違ってはいない。私は中学時代吹奏楽部でテナーサックスを吹いていたのだが、アルトサックスの人と実音のB♭でチューニングをとるとき、テナーの私は左手の中指だけ押さえていて、アルトサックスの人は人差し指・中指・薬指の3本を押さえていたのだから。(※サックスは移調楽器のため、ソプラノサックス・テナーサックスはB♭管といい「ド」が実音のシ♭、アルトサックス・バリトンサックスはE♭管といって「ド」が実音のミ♭になっているので、同じ音を出す時に指使いが異なっているのだ。)
 すると先生が重さを支えられる限界までコルクに浅く据えられたマウスピースに気づき、深く刺してもう一度吹くよう言った。
 「ド」を吹いているのだから実音のミ♭が出るはずなのに、聞こえてきたのはミ。めちゃくちゃ音が高くなって音が変わっちゃってる、、?いや、もしこれが正しいのだとすると、私はマウスピースのセッティングを半音低く設定して吹いていたことになる。
 おかしいなと思ってピアノの鍵盤でドレミを弾いてみて驚いた。聴こえてきたのはドレミではない、「レ♭ミ♭ファ」じゃないか。
 そこでようやく、私の耳がおかしくなったらしいと気づいた。

絶対音感の人特有の悩み

 私は「ドがド#(レ♭)に聞こえる」でググってみたら、同じことで悩んでいる絶対音感の人のブログ記事をいくつも目にした。ある人は自分の耳が異常をきたしていると思っていくつも病院をまわったが、「チューニングが合っていなかったのでは」や「移調楽器に聞き慣れていたせいでは」などと言われ、耳の異常もなかったため、原因はわからなかったらしい。
 またある人は、ブランクから復帰してしばらくすると違和感がなくなりもとに戻るが、また間が空くと違和感が戻る、とも言っていた。
 また、特定の咳止め薬を飲むとこのような症状が出ることがわかっているらしいのだが、少なくとも私は服用したことがない。ちなみに老化による音の変化の場合は、音が高く聞こえるのではなく低く聞こえるのだという。
 そして、あるピアニストは音がどんどん高く聞こえるようになって、引退直前には聴こえる音から何度か引いて実音を知るようにしていたのだそうだ。
 記事の中には、それは絶対音感が失われる前兆なのだと書かれているものもあった。もしそうなったら私の一部が失われてしまうという漠然とした恐怖に襲われた。

耳の成長と聴こえ方の変化(仮説)

 私が調べた結果、この現象が起きた原因の仮説はこうだ。(医学的根拠はないのであくまで仮説。しかし誰かが医学・物理学的に解明してくれることを願っている、、。)
 人間は思春期に体の成長すべてが終わるのではなく、鼻や耳など軟骨でできた部分は高齢になっても成長しすぎるのだそうだ。実はおじいさんおばあさんの耳や鼻を見ると若い頃より大きくなっているのだとか。
 音を信号として感じ取るのは内耳にある蝸牛という部分なのだが、そこも合わせて成長していると考えられる。蝸牛が成長によって大きくなったり形が変わったりするのに伴い、蝸牛に入ってきた音の響き方、つまり聞こえ方に変化が生じる。
 吹奏楽などをずっとやっていて厳密にチューナーを使い音程をチェックする機会が多いと、天気や気温によって自分の感じる・出すピッチに多少の変動があることをわかっているので、ずれを察知し修正が続くのだが、音楽にブランクがあるとそれに気づくことができず、日を重ねるごとに自分の耳の感覚が実際とどんどんずれてしまう。
 このようにして外界の音の聴こえ方が変化していても、自分の中での基準音は変わらないため、同じ音のはずなのに正しいと思われる基準音と実際に出てきた音にずれが生じ、「全部の音が半音高く聞こえる」現象が発生した、と考える。

自分の耳を信じられないことの喪失感

 これはものすごく気持ち悪い、しんどい。
 絶対音感のない人であれば出ている音が正しいかどうかなんか考えず、運指をもとにこの音がでているはずだと捉えたり、チューナーを頼って音を合わせたりしているのだと思うが、絶対音感の人は耳を頼って音楽をしがちである。というか、意識しなくとも「ドレミファソ」がピアノの音で聞こえてきて、支配されてしまう。なので今更「これが正しいドだよ」などといっても「いやいや、こりゃド#じゃ!!」という声が聞こえてきて逃れられないのだ。(私はピアノを習っていたので実音基準で世の中の音が耳に入ってきたわけだが、テナーサックス・アルトサックスを始めたときも同じ理由から、今更その楽器の「ドレミファソラシド」を覚え直すことにかなりの抵抗が生まれてしまい、結局「シ♭ドレミファソラシ♭」「ミ♭ファソラシ♭ドレミ♭」と置き換え、楽譜も脳内で実音読みに変換していた。)
 全部が半音上がるということは、調ごとに明るいイメージ・すがすがしいイメージなどと持っていたイメージが全てずれてしまうことにもなった。これはなんだかとても、寂しいし、今まで信じていた世界が全て崩れてしまったような不安に駆られた。
 大学時代アカペラサークルで歌った録音などを聞いても全部半音上がっていた時には、パラレルワールドに来てしまったのか、時空が曲がったのか、とすら疑いを抱いた。記憶が塗り替えられてしまったようで、悲しい気持ちになった。何を信じたらよいかわからない。こんなSFの主人公みたいな気持ちを体験することがあるだなんて思いもしなかった。
 なんかあの、耳が聴こえなくなったクラシックの作曲家みたいだなあ、、と夜ご飯の時間になっても食欲が出ずぼーっとテレビを眺めていると、ちょうどベートーベンの短い特集が始まった。その後も私の耳をチェックさせるかのようにボカロPの作曲方法の特集が始まり、ご丁寧にメロディが流れるのに合わせて楽譜が流れ、ああやっぱりどれもこれも半音ずれてるなあ、、と再確認した。

絶対音感を手放して音に寛容になる

 思えば、いつからか絶対音感をあえて無視するようになっていた。救急車の音・鳥のさえずりなどが全部何かしらの音名で聞こえてくるのは結構ストレスだったからだ。また、アカペラサークルにいたときの経験だが、バンド全体のピッチが上がってしまった時に自分だけ頑なに正しい音程を守っていると浮いてしまうという弊害もあり、相対音感を使って皆と溶け合うことを優先するようになったためである。考えてみれば、アカペラでもカラオケでもジャム・セッションでも、演奏を始めると皆とのハーモニーや旋律の歌い上げに集中し、どの調であったか・ピッチは正しいかはあまり気にすることはなくなっていたように思う。
 それによって耳の聴こえ方がずれてきたことに長らく気づけずにいたが、他の人と調和し音楽を奏でる喜びを存分に味わう演奏ができるようになったのは、相対音感を優先させてピッチに寛容になったからこそだと思う。絶対音感があると幼い頃から褒められてきたりしただけに、失うことを怖く思ってしまうが、音楽は文字通り「楽」しむことが一番であるし、一人で吹くより仲間と音を重ねたほうが絶対に楽しい。音の正しさに固執していたのは自分のほうであって、今はもう手放してもよいのではないか、と思うようになった。
 絶対音感を持つ人は音楽をやっている人の中でも限られるため、こういった説明をしてもわかってもらいづらいし、自分と相手でピッチや音がずれるようなときには先に相手を疑ってしまいがちである。今まで耳に頼りすぎていたが、それが絶対的なものでないと気づいた今、自分の耳を過信してはいけないなと意識を改めることができた。実音で覚えていたアルトサックスのドレミファソラシドも、アルトサックスの音で覚え直さなければいけない。実音自体についても、これからは半音上がったものが実際の音だというようにインプットしておかなければならない(ジャムセッションでは実音での楽譜を渡されることが多いので、これはこれで直さないといけないのだ)。

自分の成長と変化を受け入れる

 このあいだ色彩検定2級を取った。以前取った3級の問題集に2級の問題もついていたからなんとなく受けたのだけど、今回の話に通じる部分があったので、取るべくして取ったのだと思った。
 物体の色を認識するには、物体自体だけでなく光源・視覚が必要だが、光源自体の色が赤みがかったり、黄みがかったりすると、物体の色は違って見える。トンネルなどをイメージすると、赤い光のせいで本来赤い車の車体が黒く見えたりするのもそのせいだ。光源の照度も色に変化を与えることがあり、暗いところほど青い色を強く感じやすくなるというプルキンエシフトという現象が起こる。
 また、視覚側の変化によっても色は変わる。高齢者に多い白内障は網膜が黄みがかってくるので、色覚異常といって青が見えづらくなる現象が起きる。色眼鏡もそうで、レンズが青いサングラスをかけていると視野全体が青みがかり、赤などの物体が黒に見える。しかし不思議なことに、私達は色眼鏡をかける前にその赤い物体が赤であったことをわかっているので黒ではなく赤だと認識したままなのである。そして、かけているうちに見えている世界全体が青であることを意識せずに、あたりまえのように周りの物体を認識する。りんごを見ても、りんごは赤なのだからと、実際には黒に見えていることに気づかないのだ。私に起こった「絶対音感のずれ」は、特にこの色眼鏡の現象と全く同じであると思う。
 このように、色の例でいえば色眼鏡の装着・光源の色の変化・網膜の加齢などといった変化が色の見え方を変えていたが、音についても自分の耳が成長や加齢で変化していることを素直に受け入れ、それによる聴こえ方の変化を受け入れなければならないだろう。

世界は私が思っているより明るい

 気づいた日はショックが大きかったが、悪いことばかりでないと思えるようになった。感覚的な話だけれど、全部の音が半音高いのが正しいということが、私が思っていたより世界は明るかったということだ、とポジティブに捉えられるようになった。それに、耳が成長したということは、私の身長や体型は思春期から大きく変わっていなくても、精神は耳と同じく確実に成長しているはずだ、という自信をもつこともできるようになった。
 そして、仕事をする中で同じ言葉や物事を複数の人で話し合っても捉え方・考え方が人によって全然異なるということはわかってきたのだが、それを自分という一人の人間の中で体感するという、あまりなさそうな経験もすることができた。
 音楽は趣味でやっているのになぜこんな辛い思いしないといけないのか、、と思ったけれど、反動で仕事が楽に思えて救われたので、まあいいか笑。色々覚え直さなければならないことも多いけれど、これからは絶対音感に固執することを手放し、実音にこだわらずに仲間と音楽を楽しんでいくことに集中していきたい。

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