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感覚を肯定する

人が心中や思いを言葉でうまく人に伝えることができれば、きっと困らないんだろうなと感じることが多々ある。それは他ならぬ僕のことでもある。個人の資質、特性だったり「傷つきやすさ」も影響があるとは思う。


それとは別に家庭の中で、不適当な扱いや、虐待やDVなど蹂躙されたり、常日頃から対等な関係性を保障されなかった状況下で育った人であるなら尚更で、しかも、いざ家から出て、対人関係でも同じような経験があれば消極的になるのも仕方がないと思う。「話し合えばきっと分かり合える!」ということは、「時と場合と人による」と思う。僕は慎重でありたい。

僕も相手と「話を経て分かり合える」と心からそう願ってはいるものの、応えられるか不安です。きっと合わない人もいると思う。現に僕も「そんなもん言えるかよ!」って思う場面があります。

小さい頃から20代は特に
思ったこと思ったまま言うことは僕にとって少なからずストレスでしかなくて、勇気がいることだったと言えます。ありのまま受け止めてくれた経験が少なかったからです。思ったことを言えば、求めていない結果(応答)が返ってきますから当然と言えば当然ですね。

さて、長くなりましたが、日常で言葉だけでは「分かり合えない」と僕は思っていて、分かったとしても限界があると思っています。こどもと親の立場だとわかりやすいと思います。話し合いや言葉のラリーだけでは、すれ違うことはよく考えてみれば当たり前で、そこの認識を持っておくといいなぁと思います。(お守りのようなものですが)

受け取り方も、言葉の使い方、選び方、切り抜き方、響き方人それぞれです。

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言葉の限界についてはみんなお互い様なので、諦めてしまおうと思ってから随分楽になった経験があります。むしろ意味のない会話や意味のないことの方が意味があるんじゃないかと思っています。感じあえる余白があるかどうか。



言葉だけに頼らずとも、年齢や性別など超えて、互いに対等で権利があって、その人の気持ちと自分の気持ちは当たり前に違っているということを体感で獲得するのにやっと幾らか腑に落ちてきた次第で、まだまだ時間がかかりそうです。(修行中)



いきなり話し合いの場を持とうとしたりするのはご法度で、助走が必要だと思います。一緒に草抜きするとか、おにぎり握るとか。そういうことを経るというのが大事ですね。(例えばね)

僕の場合はずっと子どもたちと絵を描かせてもらいました。かれこれで1,000人は超えました。正確な人数とか忘れてしまいましたが、とにかくたくさんその場、その場でこどもたちと一緒にいました。いや、居させてもらいました。

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感覚的にその場、その場が僕にとっては重要だと感じられるものでした。
ただ何が重要なのか言葉にできませんでした。する必要もなかったのかもしれません。

重要なことは、子どもと一緒に描くという手段ではなく、安心できる機会や空間を作り、その子が持つ感性が肯定されるということ。大人になってもその感性が否定されたり、踏み躙られるようなことができる限りないようにしていきたい。虐待の予防をするのも僕にとっては延長線上です。

なので、繰り返しますが、安心して一緒にご飯作って食べるでもいいと思います。好きな漫画読んで話すとかそういうことでもいいのです。効率が悪いこと。やりたいこと、心が踊るようなこと。歌を一緒に歌うこと。

こどもたち、大事な人、相手がどういった感覚や感想でもOKで、言葉以外で表現して共有するというプロセスや経験は関係性を作っていく上ではかなり必要だと思います。感覚を表現したり共有したりすることが大切なのです。

亡くなった方へ、どこかへ思いを馳せたり、祈ったり、手を合わせるということも同じでしょう。僕はそれを「絵を描く」や「絵本」やいろんな活動でやりたいなと思っています。これからも。

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感覚や感情など置いておいて、数字(時間とか)言葉に重きを置いて測りうる世界で動いた方が経済にとっては合理的で生産的です。システムや仕組みを構成し駆動させるのには感情や感覚など不純物になりやすいと思います。性質上測り得ないからです。コスパがいいかどうか。損か得か。費用対効果・・・etc

これを構成型社会とするならば、感覚や感情に重きを置く世界を、測り得ない何かにことに重きを置くことを「非構成型社会」と呼ぶことにします。この枠組みも、自分の中でもう少し広げていきたいです。(もっといい名前ないかなぁ。ここらへんの議論したいですね。)

そればっかりになってしまうとやっぱり面白くないので、測り得ないことがたくさんあるんだと。あらゆる測定しうる、測定しようとする人たちから僕、そして大切な人が逃げたり守ったりできるようなものを作っていきたいと思います。それを絵本や活動で僕は表現していきます。

僕も構成型社会の組員にならなければいけないんだと20代前半まで思っていました。脅迫的に。でもどんどん首を絞められているような気分でずっと息苦しかったです。ずっと抗っていました。どうすれば良いかと。とにかく一度そこから降りました。

お金は人よりきっとありません。でも今が一番、僕は幸せで、充実しています。きっとこれからますますそうなると思います。

いまでこそ僕はありのまま受け止めて理解してくれる寛容な人が増えたと感じます。勇気のいる選択と自分の心の声に正直に生きようと願いました。それを守ってくれた人たちのおかげだと思います。あと子どもたち。抱きしめてくれたのです。僕をあらゆることから守ってくれたのです。

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素直に僕は僕と僕の仲間とのやり方で、今そして次の世代へ何か繋げたり残していきたいと思います。(結果論でしかないのでどうなるかわかりませんけどね。)

僕は僕とあなたの感覚と感性を肯定する。


さいごに、こどもとなぐりがき描法で遊んだ様子。


サポートを糧にもっと面白く楽しくなるような創作や活動に変えていきます!(子育て支援・児童虐待予防、子どもに関わる分野での活動資金やえほんなど創作活動に当てていきます。)