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誰かにとっての希望になりたい

 やそらさんスペースで話をして、様々な気づきがありました。様々な気づきの中の一つに「私は誰かの希望になりたいんだ」というものがありました。


 やそらさんは御自身が精神福祉研究者であり、精神福祉支援者でもあり,
そして精神福祉ユーザーでもあります。
 やそらさんは御自身が精神福祉ユーザーとして何とか生き抜いてきた軌跡を「リカバリーストーリー」として語る機会があり、その時に話を聞いていた人から「希望を感じずにはいられない」と言われたことがあったそうです。そして、「希望を感じずにはいられない」というフィードバックそのものにやそらさん御自身が希望を感じたのだそうです。自分が生きぬくために歩んできた歩みが誰かの希望になるんだ、と。

 その話を聞いて私は非常に共感しました。そして、私がなりたい姿もそれに近いのかもしれない、と思いました。
 「それ」とは、私が生きてきた軌跡自体が誰かの希望になる、ということです。

 私は長い間自分自身の苦しみを何とかしたいと思って足掻いていました。その途中で様々な出会いがあり、最終的には仏教に出会い、自分自身の苦しみを何とかする最も良い手段が仏教による実践だと思えるようになりました。
 実際、仏教によって私の苦しみのかなりの部分がマシになりました。今でも苦しむことはありますが、その時々に応じて対応しています。そのように苦しみがマシになったことで、だんだんと私にとって「苦しみの解消」というのが生きる上での最優先事項ではなくなってきました。
 自分自身の苦しみの解消が第一優先事項でなくなると、次に私に「誰かの役に立ちたい」という気持ちが生じてきました。私が野土ぬづちで環境改善を行っているのも、一つにはこの「誰かの役に立ちたい」という気持ちの実践である、という側面があります。また、野土ぬづちで役割・役職ももらってその責務を果たしたり、弓道部OB会で役割を担って活動したりといったことも、「誰かの役に立ちたい」という気持ちの具体的実践の一つです。

 ただ、その中で、やそらさんが語ったお話は、「誰かの役に立つ」ということの私が望む形の在り方だと思えました。
 もし私が生きてきて苦しみを何とかしようとあがいた軌跡を誰かに語り、その相手から「希望を感じた」と言われたとしたら、私は大きな喜びを感じるだろうと思いました。その喜びは環境改善作業を行ったり、組織の中で自分の役割を全うした時とは質が違う喜びだと想像できます。私はきっとその時「生まれてきて良かった」「生きてきて良かった」と思えるでしょう。

 思えば、私が尊敬している甲野善紀先生高森草庵のシスターに対して私が感じているのも、あの方々の生きてきた軌跡に憧れを抱いているからです。あの方々の具体的な実践方法や思想に感動したわけではなく、あの方々があの方々なりに悩んだり選択しているその生き様に感動したのです。それは、おそらくやそらさんが御自身の生き抜いてきた軌跡を聞いた人が「希望を感じずにはいられなかった」という思いを抱いたのと同じ感覚だと思います。
 そして、私は、まさに私にとっての甲野先生やシスターのようになりたい、と思っていたことに気づきました。つまり、私自身が「誰かにとっての希望になりたい」と思っていたのです。


 「私自身が誰かにとっての希望になりたい」という思いは、非常に抽象的で具体性がありませんが、私にとってとても大事な思いであるように感じられました。
 私が今後社会に関わるうえで、一つの軸にしたい思いだと感じました。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!