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心を省みること

 仏教の実践である瞑想についての文章でとても素敵な記事を読みましたのでシェアします。

 記事を書かれたザリ(やまぐち)さんとは直接お会いしたことはありませんが、Xやnoteにてその思索の一端を記されていて、それを常々拝読させていただいていたので、上褐の記事を読むことで伝わってくるものがありました。


 個人的な話ですが、私は最近、仕事やライフワークである環境改善やその他任されている要件が増えてきて、時間的余裕が少なくなっていました。それを言い訳に日々の瞑想の時間が減ってきており、そのことが私の心によくない影響を与えていることを自覚していました。
 そんなとき、ザリさんがタイの森林(おそらく森林寺)で3か月リトリート(瞑想を集中して行う期間)をなさり、リトリート明けに思うことを文章にされた記事を読み、私の気も引き締まる思いでした。私がかつてタイのスカトー寺に滞在して瞑想に励んだときに感じた解放感や喜びを思い出し、瞑想に対する意欲がまた出てきました。

 ザリさんの記事の中で今の私に一番刺さったのは以下の箇所です。

 私がここで強調したいのは、効率化されることを徹底的に求められる現代において、私たちが自働思考で思い浮かべる「”しなければいけない何か”は、はたして本当に”しなければいけない”のか、ゆっくり時間をとって考えてみると、案外そうでもないのでは?」ということです。このことに、私たちは余りにも無自覚な気がします。

ザリさんのnote記事『最近切に思うことについて』

 今の私はやることに追われており、「やらなければならない」の気持ちで進んでいますが、それらについて「本当にやらなければならない、なのか?」と立ち止まって考えることはできていない、と気づかされました。
 今のまま「やらなければならない」の気持ちだけで任されている諸々をこなすだけだと、それらを行う私にとっての意味は省みられなくなるし、そもそもやらなくて良いことも含まれているかもしれません。また、ただただ気持ちも焦って内容も拙いものになってしまうでしょう。

 続けて以下の箇所にも非常に共感しました。

「自分が一体何をしたいのか、自分で見つけなさい」ということは現代日本で口酸っぱく言われますが(それどころか、「やりたいことを見つけること」を幼少期から急かされる方向に、ますますシフトしている)、それと同時に、自分がしたいと思っていることが、何かの条件付けで生じているに過ぎない(※少なくともその可能性がある)、ということにも、意識を向けるべきだと思います。この両輪で進んでいった先において、始めて私たちは、「本当にやりたいこと」が見えてくるのではないでしょうか。

ザリさんのnote記事『最近切に思うことについて』

 自分の「やりたいこと」が「何かの条件付けで生じているに過ぎない」かもしれないこと。
 最近、私も自分の中に生じる衝動・感情・思考などが外部・内部の環境の影響で生じているにすぎない、という感覚が生じることがあったので、この内容に共感でき、興味深く読ませていただきました。


 瞑想により体感を伴って感じられた変化を非常に素直に書かれた文章を読み、私の日頃の生き方の雑さ、粗さに気づかせていただき、非常にうれしく思いました。ありがとうございました。