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丁寧に言葉を使うこと

 言葉はとても不完全なものです。
 「悲しい」という言葉一つ取っても、私の「悲しい」と貴方の「悲しい」は違うし、今私が感じている「悲しい」と10年前の私の「悲しい」は違います。そしてその「悲しい」をいくら言葉を尽くして表現しても、どうしても表現しきれないところが出てきます。
 自分の心についてだけでなく、例えば綺麗な景色を見たとして、その景色を見ていない人に言葉で説明するのはとても難しいでしょう。一緒に景色を見ればそれで伝わるのに、言葉でそれを表現しようとすると途端に困難になります。
 現実世界の現象を言葉で表現する場合、どうしても表現しきれないところが出てしまいます。

 それでも、今私がこうして書こうと思っているように、言葉で伝わるものもあると信じて言葉で自分の意見や思いを表現しようとする意志や、言葉で表現したいという衝動にも似た欲求があるのも確かです。
 言葉は不完全であるにもかかわらず、その言葉によって表現することを諦めきれない自分もいます。


 言葉での表現に関わる話で、松葉舎の授業の時に興味深いことがありました。
 以前にも記事に書きましたが、松葉舎の塾生には創作者(クリエイター)の方が多いです。ファッション創作や雅楽奏者の方々です。
 私の目から見ると、クリエイターの方々は、自分の思いや主張といったものを言葉に依らず表現している人に見えます。
 しかし松葉舎で行われているのは、自分の思いや意見といったものを言葉で模索していくことです。私からすると、既に言葉に依らない表現方法を持っているのに、わざわざ言葉という不完全な表現方法を使って自己表現を行うことが不思議でした。

 ということをある塾生の方に問うてみたところ、その塾生の方は「自分の作品に込めた想いなどを言葉で説明する機会が多く、その時、うまく説明できていない不全感のようなものをずっと感じているので、それを解消したくて松葉舎で学んでいる」というような回答をしてくれました。
 それに対して塾長の江本さんから「表現した言葉に依って作品の方向性が引っ張られる。雑な言葉で表現したり、他人の言葉を使うと、本来自分が表現しようとしていたものから作品の方向性が外れてしまうことがある」という補足説明がありました。

 この説明には深く納得する点がありました。
 私がそれで想起したのは、自分の日常生活で使う言葉が自分の心に与える影響です。
 人を罵倒したり、口汚い言葉を使うと、自分の心がささくれ立つのが分かります。人の悪口を言おうものなら、一瞬にして自分の心が醜くなるのも感じられます。自分の汚い言葉に自分の心が引っ張られる感覚があるのです。

 上座部仏教には十悪と呼ばれる悪行があります。その内の4つは言葉の悪行です。

〇妄語(もうご) 
 嘘をつくこと。
〇悪口(あっく) 
 悪い言葉で人の心を傷つけたり、貶したり、誹謗したりすること。
〇両舌(りょうぜつ) 
 人の仲を裂くためや調和を壊すために噂話をすること。
〇綺語(きご)
 意味のないことを話すこと。無駄話。おしゃべり。
 (これは時間と頭の知識を無益に浪費します。)

 上座部仏教ではこれらの悪行を戒めますが、それはこれらの悪行が心に悪い影響をもたらすから、とされています。そしてそれは私にとって非常に実感を伴う形で「確かに心に悪影響を与えるものだ」と感じられます。
 逆に人を労わる、励ます、慰めるといった言葉を使うと、自分の心もあたたかく、優しい気持ちになります。
 これは、江本さんが説明された「表現した言葉に依って作品の方向性が引っ張られる」というところにも通じるように思います。

 noteで記事を書く時もどのような言葉を使うかは重要であると感じています。使う言葉に記事全体が引っ張られる感覚があるからです。
 私がnoteを投稿するのは頭に浮かぶ思いや思考に向き合うことが目的に一つにあります。であるなら、向き合うために用いる言葉は慎重に選ぶ方が良いでしょう。

 自分が使う言葉が自分自身に大きな影響を与えることを確認できた一件でした。



 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!