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その言葉は誰が発したものか

 先日の松葉舎の授業で考えさせられる話がありました。

 各自の気づきや近況報告が終わった後、塾長の江本さんからChatGPTにまつわる話がありました。
 前回の授業の時も話があったのですが、「ChatGPTは言葉を理解しているのか」という問いから、「そもそも言葉を理解するとはどういうことか」というお話になりました。
 そこでは様々な視点からの「言葉」についての考察がありました。そこで示された例で言うと

1.言葉は他の言葉との関係性において決まる。
 好きと愛しているの違い。フランスとパリの関係性と日本と東京の関係性の同一さ(首都、という表現)。

2.言葉は現実世界の物事とのつながりにおいて決まる。
 「りんご」という言葉は現実の果物と結びつくことで意味を持つ。

3.言葉は文脈において機能する。
 「おはよう」「こんばんは」それ自体に意味はないが、挨拶としてコミュニケーション上では確かに効果を持つ。


 これらは「言葉とは何か」という問いに対する考察であり、言葉の受け取り手や言葉自体の機能についての視点でしたが、最後に興味深い視点からの話題提供がありました。
 それは「言葉の意味はどのように作られるのか」という問いであり、それは発話者に注目する視点でした。

 例えば、父親を指す言葉として「父」「お父さん」「パパ」「親父」などの言葉があります。それぞれは全て意味としては同じ「父親」を指しています。そのため、意味という面でのみ見ると、それらの言葉に違いはありません。
 しかし、発話者にとってそれらの言葉は確かな違いがあります。
 子どもが父親に対して「父」と呼ぶことは稀でしょう。とても違和感があります。呼びかけの言葉としては「お父さん」「パパ」「親父」という言葉が適切です。
 しかし、3歳児が「親父」ということは多くの場合違和感を覚えます。「お父さん」か「パパ」でしょう。

 このように、言葉はその言葉を発する人との関係性によって意味を変える、という視点が江本さんから提供されたのでした。

 
 この視点は指摘されるまで気づきませんでしたが、確かにそうだと思いました。
 「人生は苦しいこともあるが楽しいこともある」と3歳児に言われたら「難しい言葉知ってるねぇ~」ってなるし、80歳の方に言われたら「何か実感のこもった言葉かもしれん」と一旦考えるし、ChatGPTに言われたら「どっかで拾ってきた言葉なんやろな」と思います。
 実際には年齢やAIであるという属性だけで判断するわけではないですが、その言葉が重みを持つかどうか、相手に影響力をどれだけ発揮するかということが発話者によって変わることは確かだと思います。

 私が人に話をする時も同じです。
 私は上座部仏教を人に勧めたいと思っていますが、勧める時の私の言葉にどれほどの意味が出るか、重みが出るかは私がどう生きるかに関わっています。
 もし私が人に仏教を勧めながら、自分が仏教実践を行っていないなら、私の言葉は軽くなるでしょう。また、私が仏教に疑問を持っているなら、私の言葉は人を迷わすでしょう。
 私が人に仏教を勧めるには、まずは私が仏道修行を実践し、それによって自分の苦しみが減じることを確かめないといけません。私が実践して苦しみを減じることができて初めて、私の仏教を勧める言葉に中身が伴います。

 逆に言えば、私の中に確信がないことについての言葉は「軽い」ということです。
 私がどこかで聞きかじっただけの知識を人に披露すれば、私は何かを言った気になりますが、その実相手には何も伝わらないでしょう。もしくは「他人の言葉を賢しらにひけらかす軽薄さ」が伝わるかもしれません。
 自分が発する言葉は、自分の人生と結びつかざるを得ません。結びついた言葉が「重み」を持つのか「軽さ」を持つのか、それは私自身がどのような人生を送ってきたのかにかかっていると思います。

 自分が発する言葉にどのような重さがあり、どのような軽さがあるのか。それは自分の人生とどのように向き合っているかによる。そういう学びを得た話でした。



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 最後まで読んでくださりありがとうございました!