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たしかに体感・実感したものから積み上げていく

 私は性格的に頭でっかちになりがちです。言い換えると理屈や概念で物事を捉えることが多い性格です。また、私が信頼している人から「こうだ」と言われると素直に信じてしまいがちです。
 そうした自分の特徴に気づいてからは、私は「自分が本当に体感したことを基準にしよう」と思うようになりました。頭で考えたことで物事を理解した気になったり人から聞いたことを鵜呑みにするのでなく、自分が試してみて、その結果を確認してから判断する、ということです。

 例えば、私が信頼している教えに仏教がありますが、仏教は理論的な教えだけでなく実践が示されています。その実践は瞑想であり、日々の気づき(sati)を保つことです。
 仏教では「諸行無常(sabbeサッベー saṅkhārāサンカーラー aniccāアニッチャー)」という教えがあります。全ての事象は変化し続けていて、留まることがないという教えです。
 私は瞑想や日々の気づきの実践を行うことで、自分の心がすぐに変化して留まることを知らないことを体感し、その経験から「なるほど、自分の心でさえ無常なのだな」と納得しました。
 しかし「諸行」は自分の心以外の全ての事象のことなので、自分の心の変化を知るだけでは「諸行無常」と言えません。そのため私はまだ「諸行無常」を体感・経験してはいません。あくまで自分の心という範囲において、「無常」を実感しているだけです。
 そのため「諸行無常」という仏教の教えに対して、私は「自分の心においては無常という教えはたしかにそうだと思われる。ただ、他の人の心や他の事象については分からない」という立場を取っています。これは、私が体感・経験した内容が私の心の変化(無常さ)に限定されるからです。

 このように、私は理屈や理論において示されていることも、自分の体感・実感が伴わない範囲のものは「分からない・判断できない」と一旦保留にするように心がけています。
 
 世の中にはたくさんの思想・宗教・哲学があり、「この世の真理はこうだ」とか「世の中は本当はこういう姿なんだ」とか「こうすれば幸せになれる」とか言われますが、私はそれらに対して「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。私はそれらを体感していないから判断できません」という態度でいます。無暗に信じるわけでもなく、否定するわけでもなく、「今の私には分かりません」という態度でいます。

 こうした態度は、人によっては非常にウケが悪いです。特にその思想・宗教・哲学を本気で信じていて、私に勧めてくる人にとっては、私のその態度は非常に腹立たしいものに見えることもあるようです。相手が腹立たしく思う気持ちは正直すごくよく分かります。私も人に何かを勧めた時に「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。今の私には分かんないね」と言われたら、ちょっと腹が立ちます笑。
 ただ、私としては「体感して納得したものしか信じない」という態度は、この世界と向き合う時の私なりの誠実さの現し方なので、不評であってもこの態度を改めることは無いと思います。

 
 若いころは、理屈が通っていることは何でも信じていました。偉い人・私が尊敬している人が言っていることは絶対だと思い、それを信じていました。そして、その考えと異なる人を糾弾し、非難していました。
 しかし、様々な人と出会い、様々な人たちと交わる中で、自分のそうした独善的な態度は的を外しているのではないかと思うようになりました。もっと具体的に言うと、要するにその時期の私は自分の頭で考えていなかったな、と思うようになったのです。

 世の中には理屈が通っていてもその通りにならないことはたくさんあります。それは、私の捉えている「理屈」が不完全であるか、その状況を説明するための情報を正確に把握できていないからです。
 偉い人・立派な人も間違ったことを言います。勘違い、言い間違えもあるし、そもそも考え方がおかしいこともあります。それを「あの人が言ってたから!」と盲信すれば現実とそぐわないことも多くなります。

 そうした現実との齟齬を幾度も味わった経験から、私は自分の性格としてやってしまいがちな理屈っぽいところや人から言われたことを信じてしまうことに対して、ブレーキをかけるようになりました。
 そして、自分が体感し、試してみて、たしかにそうだと納得できたものを積み上げていこうとするようになりました。


 ところで、世の中には法則と呼べるものはあると私は思っています。一番分かりやすいのは物理法則です。熱力学第二法則とかですね。これは科学で実験され、発見されてきた法則です。
 こうした法則がどうやって見つかってきたかというと、世の中の現象を観察し、どうしてその現象が生じているのかを考え、仮説を立て、その仮説を裏付ける実験を繰り返すことでその仮説の正しさを保証し、その仮説が法則として世に受け入れられるようになってきたのです。

 私が自分の人生において行おうとしていることも同じようなことです。私の人生において、あるいは私が観測している範囲の世界において、様々な現象がありますが、その現象がなぜ生じているのか、私はそれが知りたいと思っています。体感を重視するというのは、科学における実験を重視するのと同じだと私は思っています。
 理屈としてはこう考えられるから、その理屈の裏付けとなることを試してみて、その結果を体感・実感してみる。その結果が考えていた理屈の通りであれば、確かにそうだと知ることができます。最初に述べた「諸行無常」を確かめたのと同じです。自分の心を観察することで、少なくとも自分の心は「無常」であることが確かめられました。

 世の中の思想・宗教・哲学というのは、世の中の法則を示しているのだと思います。それらは物理法則とは違って、人の心の法則や社会の法則なのだと思います。それらは世の中のあらゆる現象が生じている仕組みについての説明をしています。
 私にとってそれらは全て「仮説」です。「実験」をすることでその「仮説」が確かなものなのか確かめないと、それらが本当に正しいものなのかは分かりません。だから私は、自分で試してみて体感するまでは、その「仮説」に対して「今の私には分からないね」という保留の態度を取るのです。「仮説」は「そうであるかもしれないし、そうでないかもしれない」ものだからです。

 先ほどの仏教の例で言えば、「諸行無常」というのは「全ての現象は変化する」という「法則」を示しています。しかし、私はまだそれを体感・実感していないため、私にとっては「諸行無常」は「仮説」です。
 「諸行無常」を確かめるために瞑想や日々の気づきの実践をすることで、「全ての現象が無常かどうかは分からないけど、少なくとも私の心は無常であるようだ」と体感・実感できたので、自分の心については「無常である」という「仮説」を認め、「法則」だと認めました。
 今後、私が仏教の実践という「実験」を繰り返すことで、もしかしたら「諸行無常」という「法則」を体験できるかもしれないし、できないかもしれません。先のことは分かりません。


 とにかく、世の中で「これこそが法則だ!」と喧伝されている様々なことについて、鵜呑みにせず、かといって頭ごなしに否定するのではなく、まず試してみてその結果がどうであるかで判断する、という態度は、私がこの世の中と誠実に向き合うために必要な態度だと考えています。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!