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(19)守備優位-竹簡孫子 形篇第四

形篇は、竹簡孫子と現行孫子との間で重大な違いが存在する篇である。
下記の二つを見比べてほしい。

【竹簡孫子 書き下し文】
勝つ可からざるは守りにして、勝つ可きは攻むるなり。守らば則ち余り有りて、攻むれば則ち足らず。昔の善く守る者は、九地の下に蔵(かく)れ、九天の上に動く。故に能く自ら保ちて勝ちを全うするなり。

【現行孫子 書き下し文】
勝つ可からざるは守るなり。勝つ可きは攻むるなり。守るは則ち足ざればなり、攻るは則ち余り有ればなり。善く守る者は、九地の下に蔵れ、善く攻る者は九天の上に動く。故に能く自ら保ちて勝ちを全うするなり。

竹簡孫子では、「守るは則ち余りあり」「攻むるは則ち足らず」とあるが、現行孫子では、「守るは則ち足ざればなり」「攻めるは則ち余りあればなり」となっており、内容が真逆になっている。

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竹簡孫子と現行孫子の違いは、竹簡孫子は士気に言及しているが、現行孫子は兵数に言及しているのが特徴です。

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現行孫子を編纂したと言われる三国志の曹操は、攻撃の方が、相手と戦場を選択でき、大兵力を戦場に投入できる、それゆえに攻撃の方が有利、余りありとしたのではないかと想像できる。現に曹操は、常に相手よりも大兵力を用意する戦い方をしている。

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しかし、孫子の本意は、兵数はなく、「形」、戦力の充実さであり、それは兵数もあるが、士気、疲労、補給物資などの含めているのが特徴です。

もし用意できる兵数の多寡を言及しているのであれば、行軍篇第九の「兵は多益に非ざるも、武進すること毋(な)ければ、以て力を併(あわ)せ敵を料(はか)るに足りて、人を取らんのみ」で主張する内容と矛盾することになります。

「たとえ全体の兵力数が敵に劣っていても、軽率に猛進することがなく、戦力を集中させて敵情をしっかりと把握することに努めていれば、敵部隊を討ち取ることができるものです」

軽率に猛進することなく、戦力を集中させることが「形」であり、「守」であるのです。

また本節では、続く文章にも差異があります。
【竹簡孫子】
昔の善く守る者は、九地の下に蔵れ、九天の上に動く。
【現行孫子】
善く守る者は、九地の下に蔵れ、善く攻る者は九天の上に動く。

竹簡孫子では守る者が、九地と九天を利用するが、現行孫子では「守」と「攻」でそれぞれ九地と九天の利用を分けている。

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「九地」とは様々な地形のことで、九地篇で述べられる九つの地形種類、さらにいうと彼我の関係、シチュエーションの事です。「九天」は「孫子」では詳細な説明がありませんんが、「九地」との比較から様々な天候、豊作や飢饉、疫病、洪水などの気象の変化、それらを利用した彼我の関係、シチュエーションであると言えます。

「九天」は、攻撃側も守備側も利用できるものですが、続く文章が「故に能く自ら保ちて勝ちを全うするなり」とあり、戦力の消耗を防ぎ、彼我の戦力を消耗させない共存を目指す勝ち方という視点からも、竹簡孫子の「守る者」の方が全体の意味に矛盾を生じさせないと思います。

この一節の現行孫子の改変は、孫子の理論を狂わすもので、中国、日本においても孫子の体系を崩すものであったと想像します。「現行孫子」で孫子を学ぶ場合、文章の論理構成の点からもおかしく違和感を感じるものでした。私が竹簡孫子を研究した理由は、この違和感が原因でした。

形篇第四は、負けない態勢は自己の範疇として「形」や「守備」の重要性を説くものです。竹簡孫子はその内容に合致するものであり、竹簡孫子の方が実用性に勝ると思います。

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