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エチオピア旅行記(4)ゴンダール

今から何年も前、古い写真の詰まったCD-ROMを整理する前の私は、ぼんやりした記憶だけを頼りにエチオピアのことを紹介するつもりでした。一度きりの記事で終える予定だった書きかけの文章を読み返しながら、写真を「発掘」するうちに、当時の記憶がどんどん蘇って止まらなくなってしまいました。こんな私ですが、今があるのは昔の自分のおかげ。小なりとも、あの旅のおかげでもあります。こうでもしなければ誰の目に触れられることもなかった写真たち。この旅行記はどんどん長くなりそうですが、せっかく撮った写真を皆さんにも見て頂きたいです。さて、今回はゴンダール編です。

17〜19世紀にエチオピア帝都だったゴンダール
よく見るとロータリーを走る車に混じってヤギがテクテク

バハルダールを後にした私たちはタナ湖畔を北上してゴンダールにやって来ました。アディスアベバに都が遷されるまで、ここは文化の中心地でした。日本で言えば京都のような場所でしょうか。まず訪れたのは世界遺産の王宮ファジル・ゲビです。

ファジル・ゲビ「ファシリデスの城域」(17世紀)
王宮(奥)と王室図書館(手前)
開口部が小さい重厚な造り
ロケットのようにも見えるし、ジブリ映画『風の谷のナウシカ』にも出てきそう
アーチと鋸壁(きょへき)の連続

皇帝一族とその取り巻きたちは主にアムハラ人で、ずっと文化の担い手としてエチオピアの支配階級を占めました。彼らの伝えるところによると、 アラビア半島の南にあったシェバ(シバ)の女王がイスラエル王ソロモンを訪ねたとき、男児を身籠りました。メネリクと名付けられたその子はエチオピアの始祖とされています。ソロモンの実在も含めて、紀元前10世紀ごろとされるこの出来事を歴史的に裏付けることはできません。しかし、1974年まで続いたエチオピア皇室はソロモン朝と呼ばれ、イスラエルの末裔を自認したのです。1955年制定の旧エチオピア憲法第二条はその出自を次のように明記しました:

皇位はハイレ・セラシエ一世の皇統に恒久的に受け継がれるものとする。彼はエチオピア女王兼シェバ女王とイェルサレム王ソロモンとの間の息子メネリク一世の王朝から間断なく位を継いだ王サハレ・セラシエの末裔である。

1955年制定の旧エチオピア憲法第二条

シェバの女王がイェルサレムから戻って来るとき、モーセがシナイ山で神から授かった十戒を入れた箱も同時に貰い受け、エチオピア北部の古都アクスムで守り伝えることになりました。やがて、キリスト教が生まれると、エチオピアはそれを受容して四世紀に国教と定めます。現在のエチオピア正教会です。伝説的とはいえ、三千年の歴史を持ち、欧米の植民地支配を免れ、それよりずっと前からキリスト教を信仰してきたこの国が、悲しい歴史を背負うアフリカ諸国でいかに例外的なのか分かります(アフリカ連合の本部はアディスアベバにあります)。だから、古い教会や修道院がたくさん残っているんですね。

ダブラ・ブラハン・セラシエ教会

ダブラ・ブラハン・セラシエ教会もその内のひとつです。タナ湖周辺の円形教会と異なって、方形の間取りをしています。内部は天井までイコンでびっしり埋め尽くされ、大きな瞳がじーっと見つめてきます。

ダブラ・ブラハン・セラシエ教会の内部

この町はベタ・イスラエル(「イスラエルの家」の意)と呼ばれる人たちが住んでいた地域でもあります。シェバの女王から数千年の間、独自にユダヤ教を守り抜いた彼らは、キリスト教徒やイスラーム教徒と共存してきました。そして、1948年にイスラエルが建国されると、多くが集団移住を決意しました。世界中に離散したユダヤ人が集まった多文化国家イスラエルですが、ブラック・アフリカンであるベタ・イスラエルは差別される残酷な現実もあります。

さて、ゴンダールから次の目的地に向かったときの記憶がありません。写真に映る管制塔の形から察するに、どうやらゴンダールで国内線に搭乗したようです。私たちはアディスアベバからバハルダールへの過酷な旅によほどうんざりしていたに違いありません。もうあんな思いしたくない。飛行機乗ろっと。

今でこそアフリカ最大規模の路線網とサービスを誇るエチオピア航空
なんの知識もない私は小型プロペラ機というだけで怯みました
オランダ製の航空機フォッカー50
いざという時どうやって退避するか確認に余念のない私
手引書が何かの飛沫で汚れているのも不安に拍車を掛けます

あれから16年後の2020年11月、ゴンダール空港は爆撃されました。そのあたりの事情は次回ご紹介します。

(つづく)


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