見出し画像

17年経った

今日は10月10日スポーツの日というのですか。東京オリンピック開会式の行われた記念日です。
昭和37年に目黒区にある通信機部品製造販売の会社に就職してその年のうちに結婚しました。翌年9月に息子が生まれました。
ようやく正規の就職ができたばかりで義父母(妻の父母)の助けがなければ一人っ子が育てられなかったのでした。
東京オリンピックの年の翌年8月に、栃木県小山市の工業団地に建てた組立工場と営業出張所の責任者として赴任してきました。
小山に来てからも義父母にずいぶん助けてもらいました。その時私は30歳でした。
平成17年に義父は97歳で亡くなりました。義母は91歳でした。それまで二人の高齢者を抱えていた義弟があまりにも大変そうだったので、私が義母を引き取りました。
平成18年10月10日に義母を迎えに行きました。その時私は70歳、妻が65歳でした。それから1年9か月足腰の立たない義母を介護しました。
介護を10年も20年も続けている人がいるという事は知っていますが、やはり試練の日々でした。

             *

(これは平成18年に書いた記事です。)
義母を連れてきて10月10日で丸1年経った。
 昨年9月5日に義父が亡くなり、義弟があまり大変そうなので義母を引き取ることにした。
一箇月ほど、それまで他人ごとだつた介護について心の準備をして10月10日に妻と二人で迎えに行った。
 小諸市の市街よりかなり坂道を登ったところの老人保健施設から母を引き取って連れ戻った。
 義弟は義母が私達のところに来るのを納得していると言ったが義母は、
「行かないよ」と、金切り声を上げて拒んだ。
 認知症が進んでから昔とは変わって低い静かな声で話すようになっていた義母がこんな声で拒むとは思わなかった。
 嫌だと言われても義弟との間で話がついていたことであった。いまさら止めるわけにはいかなかった。私は涙を堪えながら車椅子を押した。
「連れ出さないで」と大きな声で訴える義母をしゃにむに車に押し込んで、妻が脇から抱きかかえて出発した。
 軽井沢あたりのコンビニでお茶を買い義母に勧めたのだが飲もうとはしなかった。再三勧めると、
「いらないったらいらないっ」と大変な不機嫌だった。
 しかしその後は、一言も文句を言わなかった。私の家に来てからも不平不満は一度も言ったことがない。認知症のために表現する能力を失っているようにさえみえる。
『あの時のあの声』は義母にとって心底、死に物狂いの訴えだったのだろう。
 此処に来てからは始終上機嫌で食事の時に「まあまあこんなにいろいろ」と、世辞を言っているときもあった。
 今年の8月下旬までは何でも食べ、特に好きなのはバナナ、さつまいも、饅頭、果物など何でも食べられたように思う。8月未近くになって急に何も食べられなくなって医師に相談すると「最後は自宅で看取りますか。それとも病院へ入れますか。病院なら栄養を摂らせる方法はいくらでもあります。しかしそれで生きていることになりますか」と言われて、大変ショックを受けた。
 ケアマネージャに相談すると、
「そこまで飛躍することはない。食べやすいように食べ物をミキサーにかけてあげなさい」と教えてくれた。
 ご飯も味噌汁も煮物も全てミキサーにかけて、美味しくもなさそうになったものを口に運んであげると喜んで食べるようになった。
 食べられなくなって、一日か二日は顔色が悪く見るからに弱っていたのが、このごろ顔色はすっかり回復した。
 車椅子にしやっきり座っていて、お相手をしていないと、
「さて」とか、「さあ」と言って、それでも相手できないでいると、
「便所へでも行きやすか」と言う。
 便所へと言うのを放っておくわけにもいかず、連れて行っても何も出ないときが多い。特に夕方は十分おきに十回くらいも行かされる事になる。
 妻が考えて、花札やトランプ、カルタなどを出してやると、並べなおしてみたりしている。
 それ以来、
「さて」といわれるとカルタか百人一首をするようになった。
 このごろは、尻を前にずらして斜めに反り返って、だらしない座り方をするようになって、居眠りをすることが多くなった。
 私は前立腺肥大のため、夜中に二度か三度小用に起きる。昼間家事が増えた妻よりも私が夜のおむつ交換をすることにしている。
 一週間ほど前の夜中、おむつの交換をしていると妻が起きてきて、
「悪いわね、貴方にこんなことをさせて」という。
「おふくろ(私の実母)が祖父母の介護をしていたころ、お母さん(義母)と介護のことを話したことがあったよ」というと妻は、
「お母さんへの想いがあるから貴方にはこんな事までできるのね」と言って泣いた。
 だが、そのときの話しはそんなことではなかった。
 私が、
「あんなにいじめられたのに、今は下の始末までさせられている」と母に対して意地の悪かった祖父母の悪口を言うと「順繰りなのに貴方はそんなことを言う」と義母は私を非難したのだった。
 私が義母の世話をするのはそんなことではない。妻の母であり、子の大事なお祖母ちやんだからである。義父母は私たちの子に優しかった。義父母にとっては初孫だったこともあって、とても可愛がってくれた。また、私は義母に「貴方は娘に着物一枚買ってくれたことがないではないか」と責められたことがあった。
 夫婦で謡曲の稽古を続けてきて冗談に、
「家一軒買うくらいは注ぎ込んだ」と言ったくらい費用がかかった。
 資産家の多い謡曲の仲間に遅れをとらないほどのことはできなかった。そのことにたいする償いの気持ちもなくはない。
 でもそんなことは瑣末なことで、最も大きな理由はこの人の晩年を不幸にしたくない。幸せな最後を見届けてやりたいからである。
 老人ホームで行事の時に撮った写真を見て「このお母さんの車椅子を押している人は誰ですか」と訊くと「さあ。○○さんかな」と義父の名を言う。主治医の先生に「今誰と一緒にいるの」と訊かれると「○○子と湧」「誰の家にいるの」「さあ。○○さんかな」と義父の名を言う。
 幸せだったのだと思う。
 私の実母は祖父(母の実父)の話しかしなかった。父のことを聞いても夫婦の情愛など感じられず、抑圧者としての父の話だった。
 幸せだった義母の晩年を惨めなものにしてはいけない。嫌なことを一言も言わない。いつも、「お世話になりやす」「ありがとう」を繰り返している義母である。
 しかも義母が来たくて此処に来たのではない。私らが相談して、嫌がる義母を無理やり連れてきたのである。
 正直言って義母を介護するのは楽ではない。デイサービスとショートステイで息抜きをし、周りに助けられて、ようやく続けていられる状態である。
 しかし私等の体力気力の続く限り最後まで責任をもって看取りたいと思う。
                       平成18年10月
 追記
 9月末から仕事が忙しくなって、10月9日に一段落した。さらに他にも小さな仕事が重なって、月半ばには疲れきってしまった。
 私が忙しい時には妻が一人で母を見るようになる。したがって、私が疲れているときには妻も疲れきっている。疲れて、気持ちが落ち込んで「いつまでこんなことを続けなければならないのか」と、泣きたいような気分を何とか振り切ろうと書いてみたのがこの文章であった。
 振り返ってみて、
『母には責任がない、私らの問題だ』ということを再確認したかった。そうでもしなければ続けられないと思うほど辛くなっていた。
 義母に10月17日から21日まで4泊5日のショートステイに行ってもらった。これが本当にありがたかつた。
 5日の間に身体を休め、気を取り直すことができた。義母に当り散らすようなことが、ないうちで良かつた、とつくづく思う。
「行かない」という義母を無理に連れてきたのに、嫌な顔などしたら一生後悔しなければならない。
 幸い気を取り直すことができて、デイサービスとショートステイに支えられながら何とか過している今日この頃である。
                      平成18年11月6日

今日午後5時ころになって妻が義母の命日だったことを思い出しました。
あの日朝6時半ころだったと思います。 義弟からここ幾日も食べ物を受け付けない。 ガーゼに水を含ませて箸で口の中を拭ってやると喜んでいたようだが、昨日は昼間から様子が違うので交代で傍についていた。
一晩中付き添っていて今朝、およそ6時ころ眠ったまま息を引き取った。
疲れ切っていた時に母(義母)を引き取って2年近くも介護してもらって助かった。
この2年の間に上の子は国家試験に合格(土地家屋調査士)弟も就職できた。
と義弟が私らに礼を言ってくれました。 私も事業の借金があって、義母を返したその月まで銀行へ25万円から30万円くらい返済していましたが、月々決まった20万くらいの返済が終わったのでした。 それさえ済めば後は短期の金額の小さな借金だけだったので、年金とアパートの収入だけで余裕をもって返済することができました。
義母を小諸へ返したのが7月10日でした。 その時からが老後の余裕ある人生だったように思います。
                       2022年10月16日


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?